田川紀久雄日記
手作りのA5版の『末期癌ブログ日記・①』を十部作成する。やはりA5版の方が読みやすい。60ページのものを作るのは大変だが、出来上がると嬉しい気分になれる。お金があれば外注で印刷するのだが、今はその余裕がない。
聲は身体的なものである。身体は自然体が一番良い、ということは聲の出し方も自ずから自然体であるべきなのだ。自然体ということは、何もしないということではない。自然体の中で努力するということになる。観念で言葉を理解しようするところに無理が生ずる。心の深いところから生まれる聲は、無意識の中ではぐくまれたものなのだ。情に表現する義太夫のすばらしさはそこにある。稽古を積み重ねると言うことは、この情を無意識のところで語る身体性を生み出すことである。無意識に語れるところまで稽古をするkとはなかなか難しいものだ。だからこそ日々の精進が大切なのである。
詩人たちを行っている詩の朗読の欠点は、ただ何も考えていないことだ。無意識の自然体はなにも考えないということとはまったく別次元のことである。現代史は頭で文字を書いている。心で書くことを置き去りにしてきた。頭で考えたことは、頭で聲を出すことになってしまう。だから聴いていてもちっとも面白くないのだ。もっと原始的なところで考えていかねば聲にはならない。聲は言葉の説明ではない。感情に訴えかけていくことなのだと思う。西洋文化の流れの中で、このことが置き去りにされてきてしまった。聲の表現は本来豊かなものである。唄でも日本では、清元、長唄、常磐津、一中節といろいろある。詩を読む行為は、活字を読むということで終わっている。その時点詩の朗読云々と言っても何も生まれてこない。身体と聲に関わりをもって探求していく必要がある。
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