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2009年2月28日 (土)

日記

竹島問題も、日本政府は及び腰である。それは政府の態度が曖昧だからだ。領土問題は毅然とした態度で臨むべきものである。ロシアとの領土問題も麻生首相はどう対処するのだろう。
失業者も増え続けている。そして何の手当ても受けられない人も沢山いる。最低の生きる権利が憲法で保障されているにもかかわらず、その網の目から抜け落ちてゆく人達が目の前にいる。ホームレスになっていかざる人達である。この人達は給付金ももらえない。安心して住めない国になってしまっている。政治家たちは、見てみぬ振りをしている。悲しい事だ。
二月も今日で終わりだ。正月だとおもっていたら、もう明日からは三月だ。雛祭りがもうすぐだ。春の感じがしてくる。それにしても昨日は雪が関東地方にも降った。偕楽園の梅も八分咲きだという。一度は見に行ってみたいものだ。後楽園の水戸藩の屋敷にも梅がある。そして桃の花も春になったら見に行きたいものだ。桃の花は甲府には沢山ある。春が近くなると心が浮き浮きしてくる。この嫌な状況を忘れたいものだ。
詩誌受贈 『まどえふ・12号』

2009年2月27日 (金)

日記

株の安値が続いている。私は一度も株を手にしたことがない。だから株にはまったく興味がない。でもこう安すぎては、経済が成り立たなくなる。その原因の一つには、政権が安定していないということだ。麻生首相が経済の建て直しを言っているが、一番よい方法はすぐ解散をすることである。強い政権を作ることが、株の値下げを食い止める最良の策である。政権の不安定が、外国が株を手放すことになる。麻生首相は、そのことぐらい解っているはずなのに、目先がまったく見えなくなっている。末期的な表情だ。
死を歌ったCDがある。バリトンのケリスティアン・ゲルハーヘルのシューベルト・ブラームス・マルタンの歌曲である。このCDは二〇〇三年にレコード・アカデミー賞をもらったものである。彼のCDでシューベルトの三大歌曲も素晴らしい。それにこのCDは廉価版である。千円盤だ。中古店で手に入れれば五百円ほどで買える。眠れぬ夜には最適なCDの一つである。
一つの言葉にどれだけ魂がこめられるかが、歌の勝負なのだ。これは詩の朗読にもいえることである。いままでの私の詩語りもこの心のこもった語りに変化してゆきたいと思って稽古に励んでいる。そうすれば仕事も増えていくことだろう。

2009年2月26日 (木)

日記

十二時間かけてアメリカに行き、八十分ほどの会談で帰国する。いくらオバマ氏が忙しいからといって、変な話だ。麻生首相は誰からも相手にされていないのだ。自民党がばらばらに解体されてゆく。笹川氏の人への思いやりのない発言にはあきれる。今の日本人はどうみてもおかしい。「おくりびと」が話題になっているが、日本人の心を取り戻すことが本当に大切なことである。
人へのおもいやりこそ、いま求められていることだ。企業にしても虐めや解雇で地獄図そのものである。そして、子供達のメール問題でも虐めが横行している。私は携帯をもっていても、坂井のぶこさんとの交信以外に使用していない。パソコンでもほとんどメールは使わない。
人の心を癒す語りを行ないたいものだ。言霊を大切にした語りを目指して稽古に励むしかない。『生命の歓び』そのものを身体に刻み込んだ語りを目指して生きていたいものだ。
姥が森の櫻にメジロが来ている。メジロを見ていえると心が和む。今年はメジロの数が多い。
坂井信夫さんから『嶺』の仕事が入った。これで病院代や漢方が賄えそうだ。いま月六万円で生活を賄っているから大変である。多くの人たちに助けられて生きている。ありがたい。

2009年2月25日 (水)

日記

世の中が急激に経済が悪化しているのに、政治家は選挙対策に追われている。国民のことなどそっちのけである。農業にいま力を入れていかねばならないのに、見通しがたたない状態である。減反政策も、どうなってゆくのかわからない。食料の自給率が四十パーセント代なのに、前向きな農業対策がうてない。日本は本来農業国であった。自然の美しさは田圃の美しさがあってこそ、日本らしさがあるのではなかろうか。田圃があるから水も確保されていた。かつてはお米だって天然干しであった。いま天然干しのお米は庶民にはなかなか手がでない。ゆったりとした流れの中で農業は営まれるべきだ。先日三浦海岸でみた大根畑では大根が畑一面隙間なく作られている。あれでは大根も美味しくはない。スパーで買った大根は二三日で、ふやけてしまう。それに引き換え自然食品で買った大根は一週間おいていても、しっかりしている。味もまったく違う。お金はかかるが、末期癌を治療するには、この自然食品をとるしかない。癌になった原因の一つには食料に原因もあるからだ。手術を拒否して生きている私は日々不安が付きまとっている。本来の自然の力を借りて癌と闘っていく生き方の中から救をも求めるしかない。つらい日々でもある。

2009年2月24日 (火)

日記

先日、京浜急行で三浦海岸まで行った時、車窓からみている風景で、山が削られている場所を何ヶ所かを見た。住宅を作るためなら、自然を破壊しても平気な気持がわからない。鞆の浦も橋を作るためなら、自然環境を破壊してもよいという考えには反対したいものだ。町並みを整備するための使用を、橋をつくらないと出さないという行政の在り方には疑問を感じざるをえない。鞆の浦は万葉集にも歌われている貴重な古い景観の場である。瀬戸内海法でも、埋立は出きるだけ抑制するとある。便利さえよくなればすべてよしという考えは、いまの不況を導いた原因の一つでもある。自動車メーカーは、危機の状況に置かれている。車が優先する社会は、人間の存在を否定する考え方だ。河津櫻を見にいったのも、自然の美しさは、計り知れない人の生き方に勇気を与えてくれるものだからだ。金銭では変えない素晴らしい財産が自然の景観なのである。
アカデミーは、「おくりびと」が入った。日本にとっては素晴らしいことだ。でもこの賞には政治的な臭いを感じる。イスラエルの映画が入らなかったのは、イスラエルのガザへの攻撃があったからではなかろうか。反戦への思いの映画であったとしても、イスラエルがガザへの攻撃は許されるものではない。
詩誌受贈 『柵・267号』

2009年2月23日 (月)

日記

河津櫻は本当に美しかった。自然の美しさは、本をよむより、また音楽を聴くより素晴らしいものだ。また油壺からみた太平洋は大きく感じられ。未来への旅は、この美しい自然との旅でありたい。自然の中にいると歩くのにもそれほど不自由を感じなかった。でも今日の朝はいつもの時間に起き上がれなかった。
浜川崎の南武線の販売機の横に「猫に餌を与えないでください。食器は早くかたずけてください」と貼り紙があった。地方の鉄道は、駅長猫を大切にしている。それに対してJRは非常に権威的である。民間の暖かさが感じられない。生き物を大切にする心がまったくない。運転手の中には猫を睨めつける人までいる。とても悲しいことだ。こんな不況の世の中なのだから、人の優しい心がは欲しいものだ。浜川崎は本当に寂れている。そこに猫がいることによって、この荒れ果てた風景に温もりを感じたのに。今年に入ってから猫が駅に現れる回数が減った。原因はJR側にあったのかもしれない。

2009年2月22日 (日)

日記

どこの企業も大変だ。大型ホテル業界の値引きが始まった。客の入りが落ちているためだ。テレビでも韓国からの安いテレビが売り出されている。日本の企業は前にも進めない、といってもあと戻りもできない。ただ破滅に向かっている状態だ。一日も早く経済対策をおこなわないと、国は潰れる。いまの政治は国民を馬鹿にしたものだ。与党も野党も、本当に国民のことなど考えていない。政党を超えた対策を一日も早く実行してもらいたい。自殺者が増えている。国民の痛みを感じない政治家は、議員になる資格はない。テレビに出てくる政治家はロクな人間はいない。どいつもこいつも馬鹿に見える。
石川遼君は予選落ちをした。良い経験になったと思う。落ちてそこから這い上がれる人間だけがプロの道を進んでいける。失敗は成功のもとになる。そのためには日々の精進しかない。人一倍の精進こそ、その人の人間性をも深めてくれるものだ。
高橋馨さんから原稿が入る。柳田国男は役人であった。そのために政治的な状況には何も言わずに見過ごしてきた。彼の論文の限界はつねに始めからあったのではなかろうか。
今日三浦海岸に河津櫻を見にいく。そして油壷まで足をのばしたい。

2009年2月21日 (土)

日記

内閣の支持率が日々低下していく。ほとんどの国民は早期辞任を望んでいる。それにも関わらず、権力の座に執着している麻生首相には国の総理としての資格がまったくない。民主党には私としてはそれほど期待もしていない。でも国民の審判を仰ぐ必要はある。主人公は国民の一人ひとりである。
昨日の誕生日には、坂井さんがいちごの「甘王」と「しま鯵」の刺身を買ってきてくれた。とてもありがたかった。
姥ヶ森の櫻は、ほぼ満開になった。櫻は美しい。心が和む。静岡の河津櫻はテレビで満開の映像が流れていた。行ってみたいものだ。できたら明日三浦海岸の河津櫻を見に行きたい。昨年は見るのを失敗したから。
ここのところ心がとても落ち込んでいる。櫻を見にいければ、いくらか心も慰められると思う。自然との出会いが、生きる歓びを誘ってくれる。次の詩集のテーマは、この自然との出会いの歓びを描きたい。

2009年2月20日 (金)

日記

今日私の誕生日だ。満で六十七歳。よくここまで生きてこられたものだ。でも末期癌を宣告されて四月で二年を迎える。これも予想より生きていられる。不思議といえば不思議な話だ。
昨日大倉正之助著『鼓動』を読んだ。彼のように前向きで生きなければと思った。詩語りを通していろんな人達と関わりを持って生きることを目指していく必要がある。そのためにも腰の痛みを早く治したい。
生きる歓びは人との付き合いから生まれてくるものだ。そして自然を見つめる生き方の中にいのちの感動を感じていたい。
野間明子さんより『操車場』の原稿が入る。呉のいりこを頂く。

2009年2月19日 (木)

日記

日々語りの稽古を行なっているが、ふっとこんなことをやっていて本当に進歩しているのだろうかと思う時がある。先が見えない稽古はある意味ではしんどいものである。でもこのしんどさを越えなければ何も生まれてこないことも事実である。聲にとって必要なのは『気』の力である。気がこもっていない聲は死に等しい。気は魂そのものだと言ってもよい。いままでこの気の力で、癌とも闘ってこれた。語りを行なうことは気を高める手段でもあった。だからもうすぐ二年を越えて生きてこられたのだと思う。挫折しかかったこともある。でも『詩人の聲』があるお陰でその挫折も乗り越えてこられたのだと思う。癌と闘って生きるには、前に何か目標がないと不安を感じてしまう。日々癌と闘っていることは、自分が思うより精神的に大きな負担を課している。眼に見えない不安が時々鬱的な現象生むのだろう。ここの所、ちょっと胃の調子が悪い。身体に不調を感じるととても不安になる。
山本陽子の詩には、とてつもない虚空が拡がっている。「するするながら・・」の詩はブラック・ホールに吸いこまれていく精神のありようである。彼女の精神との闘いは壮絶なものがあった。山本陽子の絵が一点部屋に飾ってある。眼のようなかたちが五つもある絵だ。彼女の絵を見ていると、励まされるものを感じる。闘って生き抜くことしかない。詩語りにかけた人生なら最後まで負けずに貫き通して生きることしかない。
詩誌受『山形詩人・64号』

2009年2月18日 (水)

日記

癌患者の三割が鬱にかかっているといわれる。まず助かる可能性があるのだろうかという不安がつねに付きまとっている。今の私もすべての西洋医学を拒否して生きている。心の片隅で、これでいいのだろうかという不安が日々付きまとっている。自分の力で治すのだという意識の力でなんとか前向きで生きている。寝ている時に鬱的状態に時々襲われたりする。出来れば癌患者同士の話し合える場が必要なのだと思う。
人は弱い生き物だ、ということを身に染みて知った上で、詩語りを患者に向かって行なわなければならない。一日でも早く納得のいく語りができるようになりたい。
今の日本の政治はどうにもならない状況だ。船に船長がいないのと同じである。ただただ波間に漂っている。いまこそ強い指導力のある人が出てこないと日本の経済は末期的な状態になる。国民を救うには経済力の復活いがいにはない。雇用の問題を早く解決に導いてもらいたい。
川崎詩人会発行の『新しい風・14号』を会員に送る。

2009年2月17日 (火)

日記

昨夜や夢をみた。みんなが何処かへいってしまう。たった一人のこされてしまう。この世に私しかいない。孤独への恐怖に襲われる。
生活費を抑えようと思っても、出費は止まらない。今の私は多くの人たちの助けによって活かされている。何とかしなければと思うのだが、どうにもならない。これが詩人の運命なのかもしれない。詩人の運命なら、この貧困と闘って生きるしかない。せめて人明かりの語りをしたいものだ。
アメリカでのサブプライム問題から、不況が始まった。雨をしのげる家をもちたいという望みがあっという瞬間に崩れ去ってしまったのだ。物を買う時代は終焉してしまったのだ。電車が猛スピードで走っていたのがカーブで脱線してしまったのと同じだ。ブレーキをかけることを忘れてしまって金儲けに走っていたのだ。
ますます貧富の差が大きくなっていくばかりだ。どこの電車にも乗り遅れた私は、自分の足で一歩一歩とゆっくり歩くしかない。
我が家の近くの姥森神社の櫻が五分咲くだ。櫻の花を見ていると心がやすまる。今年は櫻前線が早く訪れるという。貧しい中でも自然の美しさに出会える歓びを感じ取って生きていたいものだ。

2009年2月16日 (月)

日記

昨日川崎詩人会の例会をおこなう。場所は神奈川の萬珍采館でおこなった。「新しい風・14号」が出来上がってくる。二次会までつきあう。いまの私は詩人たちと付き合うのがこの場しかない。金子秀夫さんから詩集の出版のお祝いにとカンパを頂く。狭い部屋で朗読をした。聲を抑えておこなったが、それなりの表現ができた。聲を張り上げなくでも語りができる自信がついてきた。その場その場で聲の大きさを調節して行なえる。
沖縄海兵隊グアム移転費の出費があまりにも大きすぎる。この金額は国民の税金で行なわれる。アメリカ軍によって日本が守られている。だから政府はそれなりの負担をするのがあたりまえという考えだ。平和憲法からみればおかしな話だ。中国では原子力空母を製造する予定があるという。確かに日本が丸裸になったら、それなりの不安を感じる。日本は戦争をしないと憲法に規定されている。これを本当に守りきるのだという日本人の一人ひとりの強い心がなければ、平和憲法を守ることができなくなる。平和を守るということは、どんなに大変か。軍力で守る方針には疑問である。世界の歴史からみても、力のない国は滅びていく。また力のある国も滅びていった。ユートピアといわれても良いが、戦争がおこらない国作りに努めていく以外にはない。私はいまの川崎空襲の時の夢を見る。火の海の中を母の背中におぶさって逃げた記憶は忘れることができない。

2009年2月15日 (日)

日記

元小泉首相がロシアのプーチンとあっている。そこで四島の話がなされているそうだ。また長崎県の対馬問題でも、日本政府は後手の政策にまわっている。離島問題にもっと強い姿勢で立ち向かってもらいたいものだ。
昨日中村不二夫さんからお手紙とカンパをいただいた。手紙には「田川さんの『生命の旅』は、本当に凄い詩集だと」おもいました。」と書かれてあった。この言葉は、今生きていくうえに心の励みになります。中村さんの奥さんが身体がわるいと書かれてありましたが、とても心配です。それから増田幸太郎さんの葉書も励ましの言葉が書かれていて嬉しく感じました。ほとんど反響がない中で数人の人達に励まされたことは癌と闘っていく私にとって幸せなことでした。
増田幸太郎さんの詩集に対して返事を出さなかったのは、奥さんがなくなった哀悼詩集であったからです。もし私が死んだら、こんなかたちで詩がかかれるのかと思ったからです。死者の眼からこの詩集を読んでしまったためなのです。私も大木重雄さんの死にたいして一篇詩をかいてしまったのです。もし私が死んで追悼詩を読んだら、何も書かなくてもいいよ、といったと思う。増田さんも大変な思いでいま生きていることでしょう。だからお手紙は出さなかったのです。愛するものが先になくなられることは、本当に断腸の思いだとおもうからです。だからいま共に生きているもの同士を大切にして生きていたい。

2009年2月14日 (土)

日記

春一番。昨夜は暴風のような風であった。そして今朝温度が20度近い。
ここ数日語りの稽古が楽しくなってきた。それは自分が描いたイメージに近い語りができたことにもよる。ただただ努力以外には、人に聴いてもらえる語りができない。生きていることの証になる魂の聲を出すことだ。
詩がまったく書けない。でもそのことにあまり気にしなくなってきた。抗癌剤を中止したことによって、身体が楽になってきている。だから、いま本気になって詩語りの稽古に打ち込むことができる。この三年間はつらい稽古の日々であった。身体が思うようにならなかった。そして聲までも自分の聲でないように感じていた。それが数日前から嘘のように聲の力が蘇ってきたことを感じた。だから稽古をしていることが楽しく感じられたのだろう。
河津櫻や熱海櫻が咲き始めている。さくらも寒い時期を過ぎてからいっきに咲き出す。寒い時期こそ人間にも大切な時なのだ。語りの稽古が楽しくなっていけば、癌もいまの状態を維持することができるのではなかろうか。生きていることの感動を日々感じて生きていくことが大切なのだ。癌と闘い抜いていくのはそれ以外には方法がないのだと思う。生活は苦しいが、いまこそ真剣になって生きることだ。多くの人たちが私を応援してくださっている。Tさんも毎回カンパしてくださっている。本当にありがたい。

2009年2月13日 (金)

日記

在宅重度障害者手当が横浜市は全廃になる。県もほとんどが全廃になってゆく。私に妹がいる。知的障害者であった。そのために普通の企業に勤めることができなかった。そして施設にいれても、いろいろと雑用がある。仕方なしに自由がきく仕事をしなければならなかった。当然収入もすくない。年金など払えない。六十五歳過ぎても年金などもらえない。重度の障害者を家族にいると、一人は犠牲になってその人を面倒見なければならない。いまの認知症もそうである。親が認知症なって会社は辞めた人も多い。面倒を見る人の生活費はどこからももらえない。在宅重度障害者はいろんな面でお金が必要になる。急に全廃することには疑問を感じる。今は福祉施設が充実しているからという理由で切られるのはおかしな話だ。本当に福祉が充実しているのだろうか。認知症をみてもわかるように、福祉がとても充実しているとは思えない。老人ホームでも満室でなかなか入居できないの現実である。つねに貧乏人は置き去りにされてゆく。全廃になったお金は何処に流れてゆくのか。
世の中が暗い話ばかりである。いま福祉の予算を削る話ほど辛いものはない。国の借金は国民一人あたり660万になっている。福祉を削る前に議員たちの給料を削るほうが先だと思う。そして天下りの全廃こそいまは求められている。

2009年2月12日 (木)

日記

米国債を日本は買わされる。それも膨大な金額だ。麻生首相ののんきな経済意識は国民を不安にさせる。アメリカの経済対策は、日本を犠牲にして行なわれる。つまり日本は今でもアメリカの植民地であるということだ。
インドネシアでまた大地震が起きた。インドネシア周辺の地核はどうなっているのだろう。日本も地震国である。一日も早く学校の建物の耐久化を行ってもらいたいものだ。四川省地震のときの学校の崩壊を思うと政府の対策の遅さには呆れ果てる。
腰の痛みは腰の筋肉をつける以外にはなおりそうもない。日々のリハビリが大切である。このところ寒い日々が続いているので思うようにできていない。腰の痛みで語りにも影響がある。末期癌になって以来ほんとうの意味で聲の力が完全に回復はしていない。言葉にいのちを吹き込み、聲の力によって本当の詩語りを行ないたい。そのためにも一日も早く腰の痛みをなおしたい。CTでは、腰まで癌が転移していないという。たぶん坐骨神経痛が原因だと思う。心の底から叫び聲をあげたいものだ。四月のライブは万全な体調で望みたい。

2009年2月11日 (水)

日記

埋蔵金とか裏金とか話題になるが、庶民にとっては何ら関係のない話だ。それほど収入があるわけがない庶民は日々の生活に困窮している。詩語りの仕事がない状況ではお金を蓄えようと思ってもどうすることもできない。いまカンパなどでやっと生活が維持している。毎日が不安でなんとか生き延びているのが現実だ。
企業が裏金問題で話題になる。しかし企業は平気で解雇を行なっている。そして株の配当を行なっている。首を切られた人はやり切れに気持だろう。今年いっぱいこの解雇が続きそうだ。解雇されれば、住む場所も失う。裏金を貯めることのできない労働者は、ホームレスになるしかない。厳しい現実がある。
人明かりの仕事をして生きようと思っていたのに、こう不況の波に押されては身動きがとれない。詩人の朗読で生きる勇気を与えてくれる聲を聴きたいものだ。いまシューベルトのピアノを聴いているブレンデルのピアノの音は厳しくてその中に優しさと温もりがある。人の聲でそのような聲が出せることが出来るのだろうか。稽古をしていても、思うような聲に成長していかない。厳しくて優しさと温もりのある聲を作りあげたいものだ。その聲にあう作品を語ってゆきたいものだ。詩の朗読は聲と作品の魅力が大切である。現代詩の作品で心の残る作品がなかなか見出さない。魂の底から生み出される作品を聴きたいものだ。

2009年2月10日 (火)

日記

今の政府には具体的な経済対策が見出されない。ただ金をばら撒くだけの政策しかとれていない。高速道路などは、営業用トラックやバスなどの高速料金の値引きが必要である。一般車までは疑問に思う。国の赤字を無限に増やすことは国を滅ぼすことにもなりかねない。
麻生首相の支持率がますます下がる。新聞では十四パーセントになったとある。これでは選挙に闘うことはできない。ひたすら自滅への道を歩むだけだ。といことはなんら経済への対策がうてなくなってゆく。国民が不幸になるだけである。内需拡大がいまこの経済を救うみちである。そのためにも首切りの禁止をしていかねばならない。企業と政府が一体となって雇用問題を解決しなければならないだろう。
ローマはつねに戦争しながらも、国はつねに発展していった。それは国民が耐え抜く精神力が身についていたからである。
詩語りの道も困難が付きまとっている。でも耐え抜く心こそ必要なのである。四月十五日のテキスト作成する。いまはこのテキストをひたすら読む込むことである。自分自身を励まして生きていくことである。あきらめない、見果てぬ夢を追い続けることである。

2009年2月 9日 (月)

日記

天童大人氏から電話があった。次の『詩人の聲』のライブが四月十五日(水)と決まる。ありがたい話だ。私はこの『詩人の聲』で間違いなく成長している。自作詩を一時間語ることが出来るのは、この場でしかない。貴重な体験である。この経験が未来の仕事につながっていく。十回以上ここで体験した詩人たちは、未来の詩の語り手にまちがいなく成長していくだろう。今度は『未来への旅』(四冊の詩集)から語ってみたい。この詩集はいままでの経験を積んできたお陰でゆとりを持って語れる。私を応援してくださる人が一人でも多く聴きに来て下さることをお願いする。癌への免疫力を付けてくれるからである。生きる勇気を与えてくれることが、癌と闘っていけることにも繋がる。目標ができると、稽古にも励みがでる。
最近ヘンデルの音楽が好きになってきた。バッハと同じ時代に生きていたのに、いままでバッハばかり聴いてきた。
花粉症の兆候がでできた。鼻がむずがゆい。ということは、もうすぐ春が近いということになる。

2009年2月 8日 (日)

日記

何事にも積み重ねの努力こそが成功への近道なのだ。つまりローマは一日にしてならずである。こつこつと詩語りの稽古を積み上げていくしかない。今日には上達しないものだ。下手は下手なりにしか進歩しないものだ。進歩が見えないからといって諦めてしまえば、それまでのこと。なかなか人明かりの人生が送れないものだ。聲は心と体が一体にならなければ、活きた聲にはならない。そのうえで技術が身につかないと人に聴かせる聲にはならない。そのためにはやはり日々の生き方が大切である。そして自分は絶対に諦めないという強い決意で生きていくことだ。
政治とはつねに二つの面がある。国益を守るのか、それとも民衆の生活を守るのか。いまのすざましい不況の世の中では、政治の舵取りが難しい。いまはやはり民衆の生活を守ることが先決問題だと思う。政治家がしっかりとした舵取りができないと、国民は沈没船に乗っているような気がする。この不況は、すべて人間の欲望から生まれたものである。円天事件も、欲望がこのような事件を生み出したのである。世の中には甘い話などどこにもない。地味な努力こそが一番大切なことである。

2009年2月 7日 (土)

日記

麻生首相の郵政問題での発言にはあきれる。自分は反対であったが、政治的な意味合い胃で賛成に署名したとのこと。政治にいのちを懸けていないくだらぬ政治家である。ドイツでは失敗した政策を元小泉内閣が無理やり推し進めた政策であった。かんぽの売却問題も裏取引があったのではなかろうか。不信だらけの郵政問題だ。
保育園民営化で多くの問題が発生している。民営化になると自給が850円に下がる。いまどき850円で本当に安心して働ける保育園ができるのだろうか。国は赤字だからという理由だけで廃止が許されるのだろうか。これでは安心して子供が産み育てられない。
明るい世の中を作るために国民の一人ひとりが怒りの叫び声をあげていく必要がある。
MさんとIさんからカンパを頂く。これで今月もなんとか生きていけそうだ。ありがたい。
詩語りが二月三月とない。でも日々の精進が語りを豊にしていく。仕事がないときこそ、いろいろと考えながら語りの世界を深めていける。日々のいのちの生き方を大切にすることでそれなりのいのちをまっとうして生きていられる。
近所の庭に梅が満開になって咲いている。そして冬空はとても美しい。星も沢山見られる。月がこんなに美しく見られるのは何年ぶりか。自然の美しさに心が癒される。

2009年2月 6日 (金)

日記

CTの検査結果は、膵臓にある癌と胃のある癌の大きさは変わっていないということである。胸の痛みの原因はあいかわらず不明とのこと。無理をしないで生きるしかない。血液検査で5千円も取られる。
今月の生活費があと二万円しかない。生きているのが不安でたまらない。詩集もほとんど売れず、あてがはずれてしまった。詩集なんてそのようなものなのだ。こんなとき、詩語りの出前でも入ればたすかるのだが、こう不景気だと身動きがとれない。
アナトール・ウゴルスキ(ピアノ)でシューマンのダヴィッド同盟舞曲集・シューベルトのさすらい人を聴く。心が揺さぶられる演奏である。この人の演奏でショパンのポロネーズもとても良い。人の聲でどうしたら、悲しみにみちた聲がだせるのだろうか。
倒産がふえている。解雇された人達はこれから大変だ。

2009年2月 5日 (木)

日記

今日は病院だ。先日の検査の結果を教えてもらえる。
アメリカでは新幹線が走る計画があるが、一九五六年までに自動車メーカやタイヤメーカーは、鉄道会社化買取り、廃業にしていった。自動車を全国に普及するためのいだ。そのあげくの果てに環境破壊に突き進んでいった。現在自動車メーカーが不況に喘いでいるのも、このときから自動車産業の未来が決まっていたのだ。
新幹線も高速で走るので乗っていても不安を感じる。以前に名古屋からの帰りに乗った新幹線は横に揺れすぎて恐怖を感じたことがある。名古屋から新横浜駅までノーストップである。この間はあまりにも長すぎる。途中の駅に何度も止まる新幹線の方が乗っていても安心を感じる。
人間の歴史は、自然を破壊する歴史でもあった。自動車の世界が終わろうとしている。排気ガスを垂れ流しの乗り物は、もう必要がない。アメリカでは新幹線のスピードが350キロだそうだ。今の日本の最高速度の新幹線は320キロである。これ以上のスピードはいらないような気がする。私は飛行機を乗るのも怖い。たった一度しか乗ってはいないが、あまり乗る気がしない。
朝日朝刊の一面にパナソニック一万五千人削減と大きな見出し記事が載っている。政府が予想している社会情勢は、甘すぎる。底知れぬ不況の時代である。昨日の国会の討論を聞いていても政府の考え方では、日本が沈没していくだけだ。みんなで助け合う世の中でありたい。

2009年2月 4日 (水)

日記

操車場21号の製本と発送ができる。
午前中は歩くリハビリを公園でおこなっている。杖を使わなくても歩けるようにしたい。春になったら櫻をみた見に行きたいからだ。今年もまた櫻がみれると思うと生きていることのありがたさを痛感する。沖縄では櫻がもう満開だという。
浜川崎の猫が一週間ぶりに姿をあらわした。元気で生きていたことにほっとする。

2009年2月 3日 (火)

日記

外国の話であるが、ホスピタスで猫を飼っているところがある。それは末期患者が死からの恐怖を紛らわす効果があるからだ。猫が死に怯えている患者に添い寝をしてくれるというのだ。これはアメリカの国会図書館でも心をいやす猫がいた。猫は、心を病んでいる人の側に近づいてきて付き添ってくれるのだ。不思議な動物だ。
この歳になって猫を飼ってみたいと思っている。しかし私が死んだ後のことを思うと自分勝手に飼う事はできない。認知症の病院なども動物を飼いことが求められているが、なかなか実行されていない。認知症患者も、動物達と昼間一緒に過ごすことで病が緩和される。野良猫や、野良犬を処分するのではなく、できるだけ動物のいのちを助けてやることも人間の務めである。人間の都合で駆除されていくのは身勝手なはなしである。これは今の企業の首切りと同じことではないか。企業の一方的な利益の論理によって行なわれる行為である。川崎のさいか屋のデパートでも人員整理が行なわれるという。傍からみているとさいか屋の企業努力が感じられない。普段でも入りにくいデパートであった。ローマでは貴族と庶民の対立はあったが、いざ戦争になると、一致協力して敵と戦った。みんなが団結して助け合っていく世の中でありたい。

2009年2月 2日 (月)

日記

二月は私の誕生日の月だ。詩集を上梓してからいくらか落ち込んでいたが、元気を取り戻さなければいけない。新たな人生への挑戦をしてゆきたい。落ち込んでいては、そこからは何も生まれてはこない。詩語りも自分なりに成長をしてゆきたい。あせらずにこつこつと精進をしてゆくことだ。
操車場の印刷が遅れている。今週中には発行まで漕ぎ着けたいと思っている。
失業対策も少しづつ動き出してきているが、まだまだ手ぬるい対策である。個人個人の心を理解した対策でないと、ただの物としての対策になってしまう。人は物ではない。きめの細かい対策をとらないと、自殺者が増えていくだけだ。人の心を救うのは、やはり人の心である。思いやりのある人間関係が大切なのである。
津坂治男さんから詩集『光の階段』が送られてくる。いのちのあり方をみつめる詩集だ。詩人の仕事は、いのちとは何かを語ることに尽きると思う。そしてそれを多くの人たちに伝えることだ。できるのなら聲をだして一人でも多くの人に共感を与えることだと思う。そのためにも聲の力を持つことが詩人に試されているのだ。いま吟遊詩人こそ求められているのだ。それも本物の聲の持ち主を。

2009年2月 1日 (日)

日記

世界の不況は止まるところをしらない。人々の心も冷え込んでしまっている。鬱的気分を救うには音楽療法を勧めたい。坂井さんがいま鬱に襲われている。そこで彼女にも音楽的療法を試みた。昨夜はずっーと音楽を聴いて過ごした。
いま生活費を切りつめて生きている。私は食事代以外に一銭も使わないでいる。いや使う金がないのだ。でも日常は楽しく生きている。どうせ辛いなら、少しでも楽しく生きたいものだ。
自然は無限ではない。自然を循環しないシステムは、いつしか滅びていく。お金もそうだ。一部の金持ちだけの世の中は不幸な社会である。資本主義は、この金持ちまで裸にしてしまう。ドバイは、いまその状況に追い込まれている。
猫のカレンダーを買って部屋に飾ってある。二月になったのでカレンダーをまくる。仔猫の寝顔がとても可愛い。心が和む。

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