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2008年8月31日 (日)

日記

今月もなんとか無事に生きてこられた。しかし、このところの異常気象には心が痛む。アメリカでもまた大型のハリケーンが発生した。アジアでも大雨で大洪水が起きている。四川省の地震で死者が二十数名も出ている。それなのにこうして無事に生きられていることが不思議な気がする。
今日は川崎の駅ビルで「花束」の出版記念パティーがある。その席で詩語りを行なうことになっている。福田美鈴さんの努力は大変なものだと思う。私には彼女ほどのエネルギーがない。詩誌「焔」をみていても、仲間を大切にしている。まとまりのある詩誌だ。金子秀夫さんたちから学ぶことが多い。
「いのち」を語るということはどのようなことなのか。皆が幸せになることを考えていくことが、いのちと関わることなのだと思う。一人ひとりの喜びの顔をみられることが、生きる力にも繋がってゆく。そのための地味な努力の積み重ねが必要なのである。ソフトボールの上野選手の姿をみて勇気付けられる。自分の道を真剣に生きることが「いのち」の尊さを教えてくれる。私には詩語りしかない。これを極めていくことが「いのち」を語る大きな原動力になってゆく。来月は単独の詩語りがある。癌と闘いながら、自分の道を精進してゆくしかない。今日も生きられたことに感謝しよう。
「詩人の声」のエッセイを「女性詩人の朗読」に直して書いた。操車場の16号の締め切りに間に合った。

2008年8月30日 (土)

日記

雨の影響で災害に見舞われた方々は、大変な思いで過ごしていることだろう。土砂崩れで、家が倒壊した方などは、これからどう過ごしてよいのやらと、戸惑っている。国が早く救済の手を差し伸べてあげるべきだ。国民が困っていても、なかなか政府は動こうとしない。八月の三分の一が雨であるなんてとても信じられない現象だ。やはり環境破壊なのだろう。いままだなかった気象である。ホームレスの人達も、大変だ。多摩川にすんでいるホームレスの人達は、いつ河がまた氾濫するかわからない。このまえの多摩川では、数人の死者と動物がなくなった。動物は怯えて逃げないのだ。
景気が下降してゆく。庶民の暮らしがますます大変になる。明日語りの仕事が入っているが、気分的には鬱状態だ。その原因はやはり生活の不安感からであろう。来月は、胃カメラやCT検査がある。その度に一万円近く失費が増える。支払うお金がなくなれば治療を中止しなければなくなる。本当に末期癌の治療の抗癌剤は有効なのだろうか。いままでこうして生きてこられたことは、抗癌剤が効いているからだと思う。そう信じて治療にあたってきた。この世は、お金ですべて縁の切れ目になってゆく。貧乏はとても辛い。でもなんとかして頑張って生きてゆきたい。もっと多くの不幸な人達を思えば、私は幸せものだ。詩語りに夢を託して生きていくしかない。

2008年8月29日 (金)

日記

朝方激しい雨が降る。まさに異常気象だ。
足がだるく寝ていても時々痛みを感じてしまう。身体の心配は二十四時間不安を感じる。外面的には普通の人と変わらない。たまに人と会うと、田川さん思っていたより元気だねと言われたりする。末期癌である以上、そう元気であるわけがないのに。
Sさんより「嶺・28号」の仕事が入る。「索通信」の校正ゲラも入る。医療費の一部が出る。ありがたい。
今年の小林秀雄賞に多田富雄氏が決まった。「寡黙なる巨人」(集英社)
詩人の賞には、いろいろ疑問があるが、この度の小林秀雄賞はとても良かったと思える。
詩人たちの朗読も、お互いに勉強しあい研鑽を積むことだ。個々に独立していては、朗読の可能性が生まれてこない。各自がどこかの詩誌に参加しているのだから、せめて朗読論を書いてもいいのではなかろうか。詩人たちのほとんどは、朗読に関しての論考を書くことがない。この点にも問題がある。朗読に関して一番書いている女性詩人は鈴木東海子さんであろう。でも彼女は『詩人の声』には一度も参加していない。この点が残念だ。
天童大人氏が褒める女性詩人たちのビデオを取らねばならないと思っている。九月には紫圭子さんのビデオを撮りたいとおもっている。以前中日際でお世話になったことがある。なにしろ今は、記録を残すことが大切なのである。そして、それを誰もが見て研究できることがこの詩人の朗読を豊かにしていくものになるはずだ。なんとか詩人の声をこの世の中に根付かしてゆきたいものだ。そのためにも詩人たちの協力が必要なのである。一人でも多くの詩人たちが、観たり参加することがこの詩人の声の層を厚くしていくことになる。人明かりになる詩語りを私は求めて生きていたい。

2008年8月28日 (木)

日記

アフガン拉致で伊藤さんが死体で発見される。哀しい出来事だ。幸せと平和を取り戻すことはいかに困難なことか。伊藤さんは亡くなったのではなく、彼らの意思を受け繋いでいく心を持つことこそが大切なことなのである。意思を繋ぐことで伊藤さんは永遠に行き続けられる。どうしたら皆が幸せと平和な暮らしができるか一人ひとりが考えてゆくことである。
新・養老施設の経営が悪化している。国は早くなんとかしないと施設は解体していくだけだ。介護者の給料が安すぎる。これは福祉施設全体にいえることである。台湾でも外国の介護者を受け入れているが、雇用条件が最悪である。日本はどうなってゆくのか。老人がますます増えるのに、その対策があまりにも貧弱である。老人に生き甲斐のある場を提供することが医療費の節約にもつながる。それなのに、企業も金のならないものには手を出そうとしない。我々の身近な問題でも、幸せと平和を維持することに赤信号がともっている。
早く国会を開かなければならないのに、農林大臣の問題で国会も波乱含みである。こまったものだ。
女性詩人の声について書こうとしているのだが、なかなか書けない。

2008年8月27日 (水)

日記

アメリカで白人至上主義者のオバマ氏暗殺計画があった。根強い白人至上主義のアメリカではこれからも、オバマ氏の暗殺計画が発生するだろう。差別意識はどこの国にもある。日本だって虐めは凄いものがある。自衛艦の虐めにしてもそうであった。また正社員とパートの人達にも虐めがある。自分の立場を利用した虐めは悲惨だ。
雨にため公園で語りの稽古が出来なかったが、今日は晴れているので稽古を再開しなければならない。どうしたらいのちを感じる語りができるのだろう。八月三十一日の語りがある。だた稽古をするしかないのだおる。頭で考えているだけでは何も生まれてこない。ひたすら自分を信じて生きていくしかない。
ここ数日下痢気味であった。身体の調子もそれほど良くはない。歩くにも辛い。足の筋肉が弱ってきている。歩くにも腰がすぐに痛くなる。困ったものだ。

2008年8月26日 (火)

日記

昨夜はお腹の痛みを感じ、ちょっと不安。
また四川省で大きな地震があったそうだ。中国では、ウイグル族の街の取り壊しが本格的になりそうだ。オリンピック後の中国は、どうなって行くのか。のうてんきに騒いでいる日本のテレビ局の報道にはあきれ果てて何も言う気にもならない。日本の仕事は、世界の平和を求めてゆくことの中に本当の仕事がある。
週刊誌は星野監督を厳しく非難している記事が目立ってくるだろう。大切なのは、非難ではなくプロ野球の選手ではオリンピックの参加の意味がなかったということだ。企業やマスコミが星野監督を煽り立てただけのことだ。有名なプロの選手をオリンピックに参加させれば、金が集まる。ただそのためのプロ選手の起用であった。日本のマスコミは、あまりにも底が浅い報道しかしていない。マスコミは星野監督を責めるより、マスコミそのものを責めるべきである。
私の周辺に認知症の人が多い。アパート暮らしの人達は大変な思いをして親の面倒をみている。仕事は出来なくなる。生活が苦しくても市や県からは何の補助もでてこない。生活補助もなかなか受けられない。皆が孤立している。地域で支えあうシステムがない。ここに大きな問題がある。孤立させないような方法を見つけていかなければならない。

に月

2008年8月25日 (月)

日記

昨日、江戸東京博物館へ『書の名宝展』を見に行く。王義之「蘭亭序」を見る。宇宙を感じさせる文字である。王義之の人間性が表現されている。そこが一番面白かった。多分もう二度と見れないだろう。字にはその人の人柄が現れてこなければ、どんな上手い字でもつまらないものだ。大切なのはどう人生を生き抜いたかである。
この王義之の字から、語りの意味も見出せた。いのちそのものを語れる詩人になってゆくことだ。末期癌になったお陰で、見えなかったいのちの形が見えはじめてきた。これから生きてゆく楽しみができた。

2008年8月24日 (日)

日記

韓国とキューバの野球で韓国が勝った。韓国が強かったのは金をとれば二年の兵役免除があるからだろう。日本が負けたのは、金をといらなければという意識が強すぎた。スポーツなのだから楽のしんでやってもらいたかった。星野監督は、「俺を殺すきかよ」と冗談にいった。そのような冗談でもいってはならない。全員がプロの選手をいれるのではなくアマチュアの選手も入れるべきだ。勝つことだけの目標は、自滅を追い込む結果になる。スポーツの原点にかえるべきだと思う。
朝日新聞の金曜日の夕刊に「生きる意味」受け継ぐ地』は掲載されてあった。岩手県の旧沢内村では、1960~61に全国に先駆けて老人と乳児の医療費を無料化した。沢内村は湯田町と合併し西和賀町になった。この町に30周年を迎えた特別養老老人ホームがある。そこでは「生きる意味」に何の遜色もないということを発見し合える道場とした。私もこのような場所でいのちの語りを行なってみたいものだと思った。もっと深くいにのちについての詩を沢山書いてゆきたい。そして本当のいのちの声を出せるようになりたい。自分から「いのち」について語れる場を作ってゆくことが大切である。末期癌との闘いの中でその場を見つけてゆきたいといまは願っている。そためにも死をみつめ死を怖れないことだ。死も生の一部なのである。死は人生の終着点ではない。もう一つの生に始まりなのだと思いたい。

2008年8月23日 (土)

日記

午前中に退院をする。「合掌」の詩を手直しする。何度も声を出して読んでいくと、どうしても手直ししたくなる箇所が出てくる。出来るかぎり人の心に伝わるようにしたいと思うからだ。病院のベッドで詩を一篇書く。
野間明子さんの原稿が入る。医療保険に関するエッセイである。ありがたい。
足立倫行著『森林ニッポン』(新潮選書)を読んでいると、遺産税の問題がでてくる。日の出むらの林地の税は他の所より二割から三割も高い。林を売り払って税を納めれば、その林は切り倒されどんどん開発されてしまう。自然を守る側からみればおかしな現象としかいえない。
最後の詩集『未来の旅』の輪郭のイメージが昨夜湧いてきた。いのちと闘っている人間が未来に残したいメッセージを書きのこしてゆきたい。まだまだ死ぬわけにはいかない。
詩誌受贈 「岩礁136号」

2008年8月22日 (金)

日記

今日、一日入院日である。今月はこれで終わりだ。三回続けて一回休み。その繰り返しを癌が消えるまで行なう。まず、癌が消えることはないどろう。あくまで共存しながら生きていくしかない。抗癌剤など胃癌には効かないという説もある。素人の私にはなんともいえない。
島村直子さんよりカンパを頂く。いくらか医療費にまわせる。カンパが入らないと、私の私生活は成り立っていかない。私は多くの人たちの人明かりによって支えられている。早く多くの人たちに恩返しのできる語りをしたい。そのために、抗癌剤の治療をどうにかならないものかと考えてしまう。
小川三夫著『木のいのち木のこころ』(草思社)を読む。大切なのは鑿を砥ぐことからはじめる。誰も何も教えない。ただひたすら研ぐことを行なう。そのうちにどこまで研げばよいのか身体で覚える。これは、朗読にもいえることだ。ひたすらテキストと向き合い声をだして何百、何千と読むことから、語りの世界が生まれてくる。解ったつもりでも読むために迷う。その迷いが消えれば語りも人の心に沁み込むものが生まれてくるのだろう。ただただ精進の世界が芸を豊かにしてゆくものである。スポーツと同じように孤独の闘いがその人の芸の力を高めてくれる。鑿をひたすら砥ぎ続けることと同じことである。そしてつねに夢を持ち続けて生きてゆくことだ。

2008年8月21日 (木)

日記

銭湯で髯を剃る。抗癌剤で髯が薄くなってきたので、全部剃ってしまった。西洋医学での私への治療は、抗癌剤しか残されていない。病院に通うということは、死ぬまで抗癌剤の治療を続けることになる。病院でも、私が通う以上、なんらかの治療をしなければならない。医師から、抗癌剤の治療は、あなたには不要だなんていうはずもない。末期癌で一年以上も生きて詩語りも行なえてきたのだから、抗癌剤は有効な方法だと判断しているはずだ。精神的にも抗癌剤の治療は苦痛を伴う。
日本の健康保険制度は、世界から見れば優れた制度である。アメリカなど抗癌剤の治療は日帰りである。一泊入院をすれば、大変な出費を負担することになる。私の治療も日帰りにならないものか。午前中に、心電図・レントゲン・血液検査などを行い。午後過ぎてから点滴に入る。点滴の時間jは六時間ほどかかる。終わるのは、七時ごろになってしまう。会計は翌日の朝にある。この一泊に費用は自己負担である。いくら保健康険からの援助があっても、無駄な費用だと思う。アメリカのように一日で済ましてもらいたいものだ。医療の合理化が求められてもいいのではなかろうか。
癌になって、初めて医療が高いかを痛感した。これでは確かに健康保険は赤字になってゆくだろう。それに高齢化が拍車をかけている。医療制度の合本的な見直しが必要に感じられる。どうしたら安心して病院にだれでもが罹れるか。日本経済もますます低迷していくだろう。今の政府では、日本を救う力がない。まさに日本沈没が感じられてならない。このような時にはせめて人への愛を強めて生きてゆきたいものだ。人とひととが助け合うことがこの不安な時代を切り抜ける唯一の方法なのかもしれない。いまこそ思いやりのある社会をつくらなければならない。しかし、現実はぎぐしゃくした世の中である。電車にのっても優先席には若者が坐り、老人たいして席を譲ろうとしない光景を見る。哀しい世の中だ。

2008年8月20日 (水)

日記

福田首相の指導力のなさが浮き彫りされる。国会が九月中旬では遅いのではなかろうか。いつまでたっても福田首相の顔を見えてこない。これでは国民生活も不安になるだけだ。公明党も自分の都合だけで動いている。国民を無視した政党に成り下がっている。
オートバイを倒して足を少し怪我する。手に力がないのだろう。オートバイが倒れるまま自分も倒れこんでしまった。体力がずいぶん弱ってきている。
詩の朗読で、心を語れる語り手になりたいものだ。言葉を越えた魂の心を語る方向に向かってすすみたい。それにはどうしたらよいのか迷う。詩の言葉そのものを読むのでは何の意味もない。言葉を越えた声の力と、人を思いやる心が一つになって生きなければならない。口内炎で苦しんでいる以上、心の籠もった語りをしてゆく以外に私にとって残された方法はない。早く涼しくなって稽古に励みたい。人明かりになれる語りを目指して生きていたい。
詩誌受贈 『山形詩人62号』

2008年8月19日 (火)

日記

公園で声を出そうとしたが、口内炎で口が開かない。困った。唇の両端が痛む。そいて舌の奥も痛い。それに身体がだるい。抗癌剤の治療をやめるべきか、続けるべきか迷う。でもこの程度ですんでいるので、抗癌剤の治療は続けるべきなのだろう。癌が進行したらそれこそ大変になってしまう。ここが末期癌の辛さである。
今日は横になって寝ているしかなさそうだ。無理をしないことが大切なのである。のんびりと生きること。今日はこれ以上書けない。

2008年8月18日 (月)

日記

抗癌剤のせいか虚脱感が激しい。なにもかも虚しく感じられてならない。昨日は川崎では雨が降り涼しい一日であった。この虚しさは、オリンピックに原因があるような気がする。何のためのオリンピックか解らない。
今月詩語りがある。気を取り戻さなければならない。癌にとって、この虚脱感が魔物なのだ。免疫力を弱める原因でもあるからだ。癌と共存していくためには、それなりの緊張感が必要なのである。癌に負けないという無意識な力が大切である。負けない力は、経験がものをいう世界だ。それは日々の努力の積み重ねしかないからだ。
私は『いのち』のことばかり最近考えている。これをどう人に伝えてゆくか。まだはっきりとした答えが見出せないでいる。いのちの尊さも、生きる緊張感から生まれてくるものだ。抗癌剤の治療は、この緊張感を妨げる。でもこの中で生きることを深く学ぶこともできる。

2008年8月17日 (日)

日記

古い本だが、中村直文著の『運命を決めた一瞬』(HNK出版)が面白い。これは女子マラソン・シドニーオリンピックへの道の話である。世界一を掴むことは、想像を超えた闘いなのだ。いまのオリンピックがつまらないのは、国家意識が全面に押し出されている点だ。スポーツは楽しむのなのだ。それが国家意識がでてくると、苦しみに変貌してしまう。金をとることではなく、自分なりに精一杯行なうことではなかろうか。スポーツは勝つことだけが目的ではない。あくまで自分との闘いのドラマであって欲しい。
末期癌もある意味でスポーツに似ている。自分の負けたら、一気に癌は自分を攻撃してくるだろう。その不安との闘いが生きていることへの楽しみでありたい。抗癌剤の治療のあとは、身体がだるい。そして口内炎で口の周辺に痛みを感じる。
昨夜は寝苦しいかった。いつまでこの暑さが続くのだろう。環境破壊がこの暑さをもたらしている。南極では永久凍土がどんどん溶け始めている。シベリアでは、大きな湖が出現している。そこに住んでいた動物達が絶滅する恐れがある。これは人間の愚かさが生み出した結果である。今の日本の豊かさは、蜃気楼なのだ。いつまで蜃気楼を追い求めるつもりなのだろう。森林の伐採もひどいものだ。特に林野庁が勝手に自然を破壊している。風倒木を処理するという名目で、その周辺の森の木を全部切り倒してしまうのだ。反対運動がおきているにもかかわらず、誰にも止めることができないでいる。この日本はいったいどこへ行くというのだろう。役人のいらない国がこないものかと、つい思ってしまう。

2008年8月16日 (土)

日記

午前中に退院する。個室にいたMさんの姿が病院から完全に消えた。亡くなったのかもそれない。だれも何も言わない。個室に移ると死の訪れが早いものだ。
昨夜は、多摩川の花火が病室から眺められた。美しいものだ。半分ビルの陰になってしまっていたがそれなりに見えた。今月の入院もあと一回だ。
坂井信夫さんから『索通信』の原稿が入稿する。有難い。
『生命の歓び』の語りを、癌患者で楽器演奏が出来る人と一緒にやってみたい感じがする。看護婦さんのMさんニ訪ねたが知り合いがいない。時間をかけて見つけることだ。ホスピタスを訪問演奏を行ってみたい。癌患者の前で詩をほんとうに語ってみたい。癌患者の会のひとが私を招いてくれないものか。ボランテア(ただし、交通量のみ頂きます)で行ないますので誰か知り合い方がいたら紹介してください。
昨日靖国に四人もいのの大臣が参拝した。それに前小泉首相・元安部首相も参拝。国民がちゃんとして参拝できる国の施設は早く作ることだ。福田内閣は、以前ここのことを言っていたにもかかわらず、内閣になると口を閉ざしてしまった。なさけない有様だ。
竹中文良著『続・医者が癌にかかったとき』(文藝春秋)を読む。最後のエピローグの中で「大部分の癌はその存在に気づいた時点で完璧な治療法はない。」と書かれてある。つまり癌と仲良く付き合うしかない。騙しながらでも上手く付き合うしかないということだ。癌どうして仲良く手を繋ぎ合って生命力を高めた生き方を志していくことだと思う。だから私は詩語りを続けて仲間の手助けをしたいのだ。みんなで手を繋いで生きてゆきたいものだ。

詩誌受贈 『野の花など・18号』

2008年8月15日 (金)

日記

今日、一日入院日である。抗癌剤の治療をうけている間は、どうしても口内炎になってしまう。舌が痺れて食事の味も解らない時がある。声を出すにも大変である。やはり末期癌である状態はそれなりに辛いものがある。時々胃に違和感を覚える。そのような時は不安に襲われる。
昨日横浜が育英に勝った。観ていてハラハラした。
今日終戦記念日である。新聞一面には相変わらずオリンピックで飾られてある。報道には少し行き過ぎがあるのではなかろうか。メデアは今の日本人を白痴化させようとしている。政治から眼を逸らそうとしている。グローバル化の波にのって、国民はますます情報が管理されていく。
障害者が地域によって、後期高齢制度に加入しなければ医療が受けられなくなる。ますます弱いもの虐めが増えてくる。それだけ地域の財政が逼迫しているのだろうが、障害者まで負担をかけるとは行きすぎを感じないではいられない。
今年の夏は異常に暑い。長い夏がまだ続きそうだ。

2008年8月14日 (木)

日記

高校野球は凄い。菊川が負けるとおもっていたら逆転で勝ってしまった。オリンピック以上に面白い。
福田美鈴さんより葉書が届く。八月三十一日の「花」の出版記念での詩語りは会場費を免除にしていただく。いい詩語りをしたい。本当にじっくり詩を語りたい。詩は人の心を豊かにするものだ。そのためにも優れた詩を書き、声の力でその詩を語りきることが大切である。口内炎で舌が痺れている。声を出す時、違和感を感じる。それでも稽古をしていかなければならない。
操車場・高橋馨さんの原稿が入る。書き続けることの意味は、今を生きるための確認でもある。オリンピックでメダルを取るためには、人知れぬ努力が要求される。ものを書き続けることも、その人の人生との闘いの中で生まれてくる。書く行為は、よりよく生きる行為でもある。そしてその先に、人に感動を与えるという歓びがある。
昨夜はCDで『シービスケット』を観る。以前見たはずなのに、ほとんど記憶から消えていた。川崎競馬では夜間の競馬がある。一度見に行きたい。

2008年8月13日 (水)

日記

新聞記事がオリンピックで占領されている。新聞の一面は国民にとって大切な記事を載せるべきである。オリンピックはあくまでスポーツなのだ。北朝鮮との交渉の記事も小さく載っている。
寿命が長くなることは、今の世の中では幸せにつながらない。福祉政策があまりにもお粗末だからだ。認知症の人達の手厚い介護がなされていない。親だから子供がみるのは当然だという政府の考え方にはついていけない。日本の狭いうさぎ小屋での介護は大変である。とくに狭いアパート暮らしの人達にとっては生きることが地獄である。生活力のない私など末期癌になって大変な思い出い生き続けなければならない。医療費を捻出すれば生活費はでてこない。生活費にお金をまわせば医療費が出てこない。
それに詩語りの仕事が減っている。生活費を稼ぐ手段がなくなりつつある。いま詩誌の発行も赤字になっている。『末期癌日記』の発表が出来るいまの私には心の支えになっている。手術も何もしないで末期癌を生き抜くことはどのようなことなのか。どうしたら人明かりになって生きていけるのだろうか。癌を通じて人の役にたつ生き方をしたい。手探りながら一歩一歩と先に向けて生きていくだけだ。癌に負けない生き方だけでも生きる価値はある。いま『生命の歓び』を語ってゆきたい。約一時間ほど語れるところまで書き上げてある。来年に出版予定だ。この作品は魂の一番深いところからの叫びだ。稽古を積み重ねて人の心に響く語りを創りあげることだ。生きていることの意味をひしひしと感じる。

2008年8月12日 (火)

日記

堀本さんからカンパを頂く。とても助かる。それに井原修さんより、揖保乃糸が送られてくる。暑い時にはこのそうめんは食欲がわく。ありがたい。
相棒は今月仕事の日数が減るんで生活費が来月は大変だ。毎月綱渡りの生活である。「花」出版イベントも会場費が払えないので出席を断る。
昨日川崎に出て安い食料を買い求めた。途中で眩暈がした。貧血なのかもしれない。暑い日々が続くと身体がしんどく感じられる。この暑さでは公園で稽古ができない。早く涼しくなってもらいたい。といっても九月の中頃まではこの暑さが続くのだろう。
浜川崎の野良猫たちは元気だ。毎日缶詰めを与えている。この暑い夏も彼らは乗り越えて生きていけるだろう。

2008年8月11日 (月)

日記

癌になったら、癌と共存した生き方がよい。それはお互いに干渉しあわない生き方を求めることだと思う。何も気にせず普段の生活を続けることだ。しかし無理をした生き方」だけは止めるべきである。無理をしない。癌であってもくよくよしない。癌に感謝して生きることだ。相手を褒めてやれば、癌もその気になって身体に悪い影響を与えはしない。そう思うことによって日々楽しく生きること。そのことが癌に罹ったら生き方の秘訣だと思う。
末期癌といわれて、毎月詩語りを行なってここまで生きてこられた。不思議な気がする。
昨日詩が書けた。無の中で生きる詩である。つまりいのちそのもののあり方を詩にしたまでである。これからの詩語りは『いのち』そのものを語り始めてゆきたいと思っている。聴き手と語り手が一つになった世界で語ってゆきたい。
癌はまったく個人差があるので、癌の治療は人には進められない。ただこうした生き方は語ってゆきたい。末期癌でも、生に怯えることなく生きる方法を見つけたひとが寿命で死ねる。だから死に怯える必要はどこにもない。生き抜くヒントは「のほほーん」と生きることなのかもしれない。
グルジアの問題は私には良く解らない。民族の独立は民族にとっての念願であろう。チベットも独立を求めている。民族は他の民族によって自由を奪われてはならない。そのことだけが大切なことである。相手を認め合った本当の自由を求めてお互いに手を結んで未来に生き抜く方法が見出させばよいのだが。
今の若者達は夏目漱石や芥川龍之介もしなない人が増えている。グロバル化の波によって人々は過去の歴史を忘れていく。なにか可笑しな現象だと思う。八月十五日は終戦記念日だ。どうしたらこの戦争体験を次の世代に伝えていけるのだろうか。暑い夏はまだ続く。

2008年8月10日 (日)

日記

胃癌で同じことに入院したMさんが個室に部屋替えをされていた。彼は食事がたべられず、ずっと点滴をしていた。彼は癌になってから、生き方がマイナス方向に向かってしまった。そのために免疫力の低下で身体も悪い方に向かったのだと思える。病院内では、私の何も出来ないし、ただ励ますことしかなかった。手術の出来ない患者は、つねに強い心と生き方の問題が、その人の癌を左右する。個室に入ったということは、それほど長くいきられないのだろう。辛い話だ。
今までそれほど身体が変わらないで来れたのも、詩語りに人生を賭けてみようと思ってことが一番の大きな要素であったと思う。そして人明かりを目指した生き方に目指して行ったことである。といっても、自分の思うようにはまだ行っていない。癌患者にとって、孤独に落ち込むことが」危険な状態になってしまう。出来るが限り友達や、癌患者の仲間の組織に入られることだと思う。といっても、なかなか癌患者同士の仲間つくりは難しい。そういう場合私のようにブログを通して問いかけていくことも、癌に免疫力を増すことに繋がっていくだろうと思われる。なんでも前向きに生きるしかない。そして多くの闘病記を読むことによっていろんなことを学んでいける。いまつねに何をなすべきかを考えて生きているしかない。
操車場に時々カンパをしてくださる人のお母さんがボケはじめてきた。落合恵子さんがいうように、一人で苦しんで悩まず、助けてくれる仲間作りをすることが大切である。いま多くのひとが認知症の人を抱えて苦しみ闘いぬいていることだろう。同人の井原修さんもその一人である。これは想像を超えた闘いの日々がある。一人で悩んでは相手を殺す羽目に落ち込む。それを避けるためにも、いろんなところに相談をしにいくことも大切である。日本の老人問題はあまりにも手遅れがしてならない。国は予算がないという一点張りである。なんとかしようという心が政府には感じられない。安心して暮らせる国づくりをしなければますます不幸な人達が増えるだけだ。景気が減退している中でも、できることから手をつけていって貰いたいものだ。認知症の場合地域で支えあう体制づくりがもっとも大切である。地域の福祉政策がもっと豊かになることを願うしかない。
いま北京オリンピックかげで激しい弾圧がある。国民はなにも言えない状態に置かれている。こんな嫌なオリンピックは最近にない。まるでベルリンオリンピックのようだ。わたしはこの度のオリンピックはテレビで観ないことにしている。ささやかな個人的な抵抗である。
私が思うには、一人の不幸があっては本当の幸福はありえない。そのための闘いは自分のできるところから始めることしかない。

2008年8月 9日 (土)

日記

午前中に病院を退院する。
竹中文良著『医者が癌にかかったとき』(文藝春秋)を読む。その中で
胃癌の転移には、①血行性、②リンパ行性、③播種性、の3つのパターンがある。(略)
胃癌の手術の話に移そう。この三つの転移のうち、胃の周辺の「リンパ転移と、肝転移だけはある程度取れる。」しかし、その他の転移に対してはまったくお手あげなのだ。外科手術が進歩した現在でも、そして」どんあ名医が執刀しようとも、手術の限界はここまでである。(ページ127)
竹中さんはタミナールケーアには懐疑的である。それは一つの医師の生き方の問題だと思う。いろんな考え方で生きていくことも大切である。
つまり末期癌になってしまったら手術はしないほうがよいのだろう。私の選択は間違いなかったように思える。あとは抗癌剤の治療と西洋医学と自己の免疫力を高める生活尾をおくることしかない。
点滴中に平均律クラヴィーア全曲集を聴く。ロザリン・テューレック(ピアノ)で。
癌は「死の病」なら残された時間を楽しんで生き抜いてゆきたいと願っている。そう生き方が自然に癌を治療してくれるのかもしれない。そこに賭けて私は癌と闘いながら生き抜いていこうと思っている。だきあら癌もそう悪いものとは考えていない。

2008年8月 8日 (金)

日記

今日は一日入院日である。抗癌剤の治療をすると口内炎で苦しむ。でもこの治療を続けるしかないのだろうか。現在抗癌剤はどこまで癌に有効なのだろうか知りたいものだ。ある本には胃癌や大腸癌には抗癌剤は効かないと書かれている。担当の医師にいわせると、その本は古いという。抗癌剤の効き目は人によって異なる。そこに問題がある。素人にはよく解らない話だ。それにしても抗癌剤の治療はつらい。血液も七本ほどとられる。そしてレントゲンも四枚ほど撮られる・放射能の心配はないのだろうか。これが毎週だから何の影響もないというはずはない。
浜川崎の操車場には、龍舌蘭の花が咲いている。これは五十年・六十年に一度しか咲かないという。そして咲いたあとは涸れてしまう。葉がまさに龍の舌のようである。そして浜川崎の白猫は元気が良い。
朝刊の記事で『景気後退局面入り』とある。福田政権の経済に対する対応があまりにも遅すぎる。それに中国のギョーザ事件もお粗末である。政府は中国にたいして弱腰である。
これからの日本は、はっきりと諸外国に言う姿勢を持つことだ。そして福祉国家を目指して行くべきだ。原爆記念日でも、核の廃絶を訴えても、原発の問題にまで踏み込んで核のことは言うべきである。憲法第九条を守って平和な国づくりに努めるべきである。平和な国づくりこそ日本の使命である。エイズと癌の治療に日本は貢献すべきだ。

2008年8月 7日 (木)

日記

詩の朗読は安易に行うべきではない。ちゃんと聴き手がいて、語る雰囲気の中でおこなわないと語っていても虚しいものだ。詩の語りも文化の一つなのである。そういう自負を持ってこそ意味がある。私は「いのち」についてこれからも語ってゆきたい。
いまの中国の共産党がよくわからなくなってきている。弱いものいじめの政党ととしか写らない。北京の貧しい地区から住民を追い出し、新しい街作り計画が企業が破綻して行き詰まりのいなっている。国民は政府を批判すると強制に連行されてしまう。恐ろしい国家である。
四川省でまた大きな地震が発生した。オリンピックの報道でこの地震の報道が消えてゆく。私は今回のオリンピックは反対だ。こんな酷い体制の中でおこなわれるオリンピックは何もならない。国民の祭典からほど遠い。
今年の夏の暑さは異常だ。身体を維持していくだけでも精一杯。なにもおこなう気力が失せている。食事もおもうように取れない。食べる気力がわかない。果物をたべたいと思っても貧乏な私はそれを買うお金もない。こんなに何もかもが値上がりしてはどうして暮らしてゆけばいいのだろう。収入のない私にはどう対処したらよいというのか。
八月に国会は開けそうにもない。国民の生活は大変なのに、政府は何ら打つ手もない。無策の政府としかいいようがない。原爆の被害者も高齢化。それに対して何ら手を差し伸べようとはしない。空母の問題もうやむやに終わってしまう。立秋を迎えてこれからは、残暑になる。こよみ季節は秋に変わっても、暑さはこれから本番のような気がすうる。身体に気をつけて生きていくしかない。

2008年8月 6日 (水)

日記

Sさんから電話があった。いま入院している。膀胱癌になった。手術を終えて明日退院だとのことだった。私の周辺でも癌に罹ってゆき人が増えてきている。膀胱癌は手術するしかない。抗癌剤の治療はないようだ。胃癌と違って病気に対処の仕方が違う。胃癌の場合精神的な闘いを必要とする。でもどちらも癌である以上、無理をしない生き方をしなければならない。のんびりと生きていくしかなさそうだ。
昨日のライブは、会場とお客の設定のミスがあった。身体的に非常に疲れた。
川崎駅の市営バス停は階段が急でエレベーターが付いていない。三味線を担いで登るのにはとてもしんどい。障害者を無視した設計である。

2008年8月 5日 (火)

日記

いま中国各地で何が起きているのか解らない。オリンピックの名のもとに弾圧が始まっている。家電メーカーは薄型テレビを売るためにオリンピックの広告に力をいれている。商売の為なら、オリンピック批判もできない。日本の企業の情けなさが暴露された感じだ。
明日は広島の原爆投下の日だ。被害者の補償問題にも国の責任は曖昧だ。アメリカ政府に被害を請求すべきである。どんな理由をつけても原爆投下は許される問題ではない。CO2の削減のために原発を大量に作りだしている。日本電力もCO2の削減の名目で原発を正当化しようとしている。東京電力のコマーシャルは欺瞞だらけの広告である。いま日本の原発の建物が寿命にきている。この問題にも対策を示さないでいる。
世界の各地で温暖化のために環境がどんどん破壊されている。地球の生命は末期癌と同じようにもがき続けている。ひとり一人がどう生きていくべきかを問われている。いのちを見つめいのちを大切にする心を育てるしかない。時間はかかるがその努力は人のいのちや地球のいのちを救ってくれる。
今日私は詩語りでこの「いのち」について語り始めてゆきたい。新しい旅立ちに向かって生きてゆくことだ。
詩誌受贈 『鰐組・229号』

2008年8月 4日 (月)

日記

どこの総合病院でも末期癌者はいる。それなのに、患者にたいしてケアがほとんどなされていない。あくまで、医師は患者を看る人であり、患者は看られる人であり続ける。人間として対等であることがない。そのため患者のいらいらは膨らむだけである。丁寧なアドバイスや治療報告がなされない。通り一遍の報告しかなされない。総合病院もそろそろターミナルケアのできる体制作りが必要である
日本の医療は遅れている。専門莫迦になっている。これは日本の社会構造が歪んだ結果生まれた社会現象でもある。全体的な人間の育成にまったく感心がなかったのだ。いまの詰め込み教育も人間の歪みを増やすだけの教育である。そして幼児期のしつけが大人になれなかった親達の教育の原因にもなっている。いま犯罪が予想もできない事件になっている。豊かになることは良いことであるが、その反面人間性の教育がどうしてもおろそかになってゆく。日本人の寿命も延びているが、それなりの歳の人間性をもった大人になって成長していかないでいる。今の老人をみても、まるで餓鬼のような老人が多い。自己中心主義なのだ。
死は生の一部なのである。これは末期癌になって解ったことだ。死は生の終着点ではない。あくまで生の全体の一部でしかない。死は生の終点だという医師が多い。癌の本にも死は生の終点であると書かれてある本がほとんどだ。この考え方は誤りなのである。死も生の一部という考えが生命の豊かさを広げていく。詩語りライブで『いのち』そのものを語ってゆきたい。死が生の一部であるゆえ他人の生も自分の生のように感じられる。そのことによって生命の尊厳を守ってゆけるのだ。
末期癌は死に向かっているのではなく、今輝いて生きている生を見守っているのだ。いまこそが常に永遠なのである。
受贈詩誌 『黒豹118号』「叢生157号』『詩人会議46号』

2008年8月 3日 (日)

日記

今朝起きたら、腰の痛みを強く感じた。夜中暑いのでクーラーを入れているせいなのかもしれない。いつも身体のどこかがおかしい。表面的に見れば普通の人と何ら変わりがないのだが。
健康保険料も上がってしまった。それに介護保険の支払いの通知がきた。収入のない私にどう支払えというのだろうか。これは国民の義務なのだからいたしかたがないといえば言えるのだが。それにしても生活費の高騰で庶民の暮らしは大変なのだ。このような状況ではますます不景気になってゆく。アメリカでも消費より預金をする人が増えているという。それだけ生活の不安をアメリカでも抱えている。選挙が終われば消費税があがるだろう。国民の生活には我慢ができない状況になった行くかもしれない。このようなときこそ政治が問われるのだが、その政治にも国民は期待していない。最悪の状態なのだ。八月に入った途端物価の値上がりには驚いた。一日千円の生活はとても維持ができない。相棒の収入が十万ほどでは、医療費や生活費などとても賄えるものではない。これから先ますます私の身体が不安になってゆくだろう。笑って楽しんで生きる生き方が癌の治療には良いといっても、もう笑える状態ではない。いろんなことを考えると毎日不眠が続きそうだ。安心して生きるにはどうしたらよいのだろうか。

2008年8月 2日 (土)

日記

死亡記事を見ていたら、韓国の作家の李清俊(イ・チョンジュン)さんの名が眼に入ってきた。68歳で肺がんのために死去。わたしは映画『風の丘を越えて』を観て感動したものだ。原作が「西便制」である。パンソリをテーマにしたものだ。詩を朗読をするひとにはぜひ観てもらいたい映画の一つである。私はCDで時々観る。
やはり口内炎で口の中が痛む。五日のライブは、どう詩を語るかを考え続ける。何を語りたいのかを全面に持ってくるべきだと思う。最近の詩は「いのち」について書けるようになってきている。素直に飾らずにいのちについて語れる。癌になったことにより私の語りも変りつつある。癌になったことの意味が解りかけてきている。自作詩を天童大人氏の企画で十回もやらせていただいた。その中から癌になったことによって最近変ってきた。やはり語り続けることの中でしか人は変貌しないのである。癌と闘い語りと闘うことが私の残された仕事なのだ。聴きに来てくださる方に問いかけられる語りが出来るようになりつつある。口が大きく開けられない事によって、語りに何かが付け加えられたような気がする。声が思い切り出せないが、人に聴いていただける語りを目指したい。そして『いのち』そのものを語り続けてゆきたい。十回の自作詩のかたりが終えたことによって、新しい語りの世界に旅立ちができそうだ。津坂治男さんにも操車場14号の詩を褒められた。読んでくれている人がいることはうれしいことだ。
若林妙子さんから食料が送られてきた。そして年間購読者にもなっていただいた。感謝。
次の詩集『生命の歓び』が楽しみだ。
福田内閣はひたすら迷走を続けている。国民を無視した政治だ。これでは選挙対策の政治としか思われない。なさけないの一言。

2008年8月 1日 (金)

日記

昨日紀伊国屋画廊に「異質五人展」を観に行く。木下晋さんや恵藤求氏らとあう。初めて画家の加藤芳信さんとも会う。Oさんの息子さんがやはり私と同じ末期癌であるという。年齢は四〇代である。進行が早いらしい。操車場15号を渡す。東大で手術待ちとのこと。
健康保険も年金から差し引くとの通知が来たが、私は年金など六五歳過ぎても貰えない。政府は強引な天引きをするものだ。
知恵遅れの妹の為にまともな仕事に付いたことがない。認知症の介護でも面倒をみるひとの保証は何一つとてない。会社をやめれば、親の年金で食べていくしかない。患者は身内で見るのが今の世の中の現状だ。一度会社を辞めれば二度と職にはつけない。妹を施設にいれていても、身体の弱い妹は入院や役所へのいろいろな手続きなどで常に仕事が出来ない状態に陥る。だから年金など払える生活は一度もない。(詩の出版の仕事をしても毎月赤字であった。)いま生活保護を受けようとしても役所は受け付けてはくれない。八月からいろんな物価が上昇している。相棒の収入だけではとても生活費は持ちこたえられない。これから先、下手をすると病院にいくことも出来なくなる恐れがある。毎日が不安である。口内炎の痛みは相変わらずよくならない。熱いものが食べられない。食の味も解らない。そして口の中が違和感を覚える。これで五日の詩語りが出来るのだろうか、ちょっと心配だ。

  天童 大人 プロデュース 
 La Voix des poètes (詩人の聲)
 ―「目の言葉」から「耳のコトバ」へー
 
8月の予定
第236回8月5日(火) ギヤルリー東京ユマニテ 
天童大人
第237回8月6日(水) ギャルリー東京ユマニテ 
田中庸介
第238回8月14日(木) Star Poets Gallery 原田道子
第239回8月22日(金) Star Poets Gallery 白石かずこ
第240回8月26日(火) Star Poets Gallery 中村恵美
第241回8月29日(金) ギャラリー絵夢 峰岸了子

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