日記
昨日の日米の会談はなんなのだろうか。福田首相の太鼓持ち。太鼓持ちならそれなりの芸ができるのに、何にもできない素寒貧。アメリカには何も言えない悲しきピエロ。千歳空港をすべての飛行機を停めて着陸する。まるで悪の皇帝さながらだ。
昨日川崎に出かけようとしたが、足が動けない。腰や膝の痛みで参ってしまった。表面的には丈夫そうな身体なのだが、中身はボロボロなのだ。
私の詩は一口で言うとどのようなものなのか。それは「生き様を表現してきた」というしかない。それは普通の詩人からみると野暮ったい世界であろう。私に言わせれば生き様のない人間が詩を書いて何の意味があろうかと言いたい。石川啄木、中原中也、宮澤賢治など生き様を表現してきた詩人達だ。いま詩の世界でもこの生き様を表現できる詩人が少なくなってきている。ほどんの詩人がサラリーマンなのだ。そして学校の先生が多い。本来の詩人の姿から懸け離れた存在なのだ。本物の詩人がいないから魂の声が出せないでいる。詩人の声とは何か、もと詩人達は考えるべきだ。そうしなければいくら詩人の声といっても中身がないものである。
高橋彰さんから、木下晋さんの大学での授業のDVDが送られてきた。ハンセン病の桜井哲夫さんを招いての授業である。その中でNHKのアナウンサーが詩の朗読をおこなっている。アナウンサーは詩の言葉を正確に伝える仕事である。正確に伝えるだけなら活字の方がよい。つまりテキストをコピーして聴き手に渡せばよいのだ。詩の朗読でテキストを見ながら聴く人がいるが、あれはこまる。声に集中して詩人の声を聴くべきである。アナウンサーの詩の朗読は、朗読ではないのだ。別な名で言ってもらいたい。たとえば詩を読む。詩を読むのは朗読とは違う。アナウンサーは原稿を正確に読むのが仕事である。つまり原稿を読む人である。それ以上でもなければそれ以下でもない。読むことのプロなのである。詩人の声という以上、そこには詩人の魂の叫びが聴こえてこなければならない。しかし実際そのような詩人などほとんどいないのが現状だ。哀しい限りである。中原中也の低音の声で叫んだ「詩人の声」が残っていないのが残念でならない。


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