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2008年2月12日 (火)

日記

本を読むより、音楽を聴く時間が長くなっている。チェルビダッケのブルックナーのCDを順に聴いている。さすがに凄い見事な演奏だ。音楽を真剣になって聴くのは青年時代に一時期あった。それがいつの間にか、何かをやりながら聴くようになってしまった。学生のころは、何処に行っても名曲喫茶があって楽しい時間を過ごしたものだ。私は新宿のらんぶるや渋谷のライオンに行って聴いた。そして、それと同時にジャズ喫茶にも行った。レコードを買えない時代が懐かしい。いつでも手軽にCDが買える時代は寂しいものだ。何かが間違っているような気がする。ものが豊かになると同時に、心の豊かさが忘れてもいく。
川崎にも素晴らしいホールがあって、人気のある指揮者もくる。それなのに、お金がないので聴きに行くこともできない。千円か2千円程度で聴けないものか。昔川崎駅ビルに映画館があってそこで川崎オーケストラが500円で聴けた。毎回聴きにいったものだった。
詩の語りも500円程度で行える場所があったら参加したいものだ。いいものを出来るだけ多くの人たちに聴いてもらいたいからだ。落語も聴きにいける場が少なくなっている。昔のように演奏ができる喫茶店がなくなって来ている。川崎にアケミという喫茶店があった。そこではジャズ演奏など行っていた。いまはこのような店が全国各地を見てもなくなっている。昔の喫茶店は市民文化の交流の場であった。いつかまた喫茶店をやってみたくなる。人と人との交流の場をつくりたいものだ。

3月2日に、三鷹で山本陽子の詩を朗読する会を開こうと思っております。処女詩の、「神の孔は深淵の穴」と、「遥るかする、するするながらIII」です。

もしこの詩が、お体の具合によいようでしたら、どうぞいらしてください。

山本陽子 「神の孔は深淵の穴」

第454行ー499行 
わたしたちは、非常なる死者のもとにあって
        よみがえってはいない
だから死者の底からの深い静かなつぶやきに
        耳をかたむけずには
        いられない
        言葉いじょうの言葉
        沈黙のなかの沈黙
深淵にこだまするつぶやきの暗烈なる響きに
        目をとどろかせずには
        いられない
    そしてわたしたちも だまっている

正常がかくも静かな非常であり
日常がかくも単調な正常であることの
   深いいかりからかなしみがたちのぼる
最大のしっぽが最小の口にくわえられている(最大のしっぽが・・・)
   一瞬の この時の時に
   峻烈なる風が かくも静かに
   秋が これほど冷たく
   むすぼれて
   沈黙のみが
   ただひとつの言葉を発し
   壁のみが
   ただひとつの向背骨となるがゆえに
   屹立する 外なる壁のあいだ
   内なる壁の逆理をひめて
わたしたちは、壁のみによってむすばれる

秋の白いかがやきが 蒼い空に凝固して、
熱をうしなったかがやきが、ひかりその
ものとなるときにあって
   この等質価の世界のあいだ
   互の顔をば 知ることなく
   虚空のなか ただ関係のみが ある
   ひとりひとり、ひとりはひとりと
   逆転は、ただそれがためにあって
わたしたちは、それによって むすばれて
              ある
 絶望によってむすばれて、しかもおのれはつねにひとりであるこ
とは、すばらしいことである。そこにはめくるまめく高みと、骨を
きしませる深淵があって、人間が、おのれ自身となることのできる
広大無辺な空間をやどしているからである。人間が飛ぶことができ
て、しかも飛ぶことを拒絶する、それもすばらしい試みでありーー
なぜなら水平から、垂直に落下していけるのだからである。無限の
落下は無限の上昇に限りなく接近する。
 ただ 飛ぶことを すべての人々が、おそるおそるではあっても、
いま はじめなくては、人間が飛んでいく彼方もない。人間が飛ぶ
ときにのみ、空間は創造されてそこにある。

メールのい人から返信がきた。身体の調子がよければ行ってみたい。
わたしも「遙るかする、するするながらⅢ」を語ったことがある。支倉隆子さんも朗読をした。それから野間明子さんも朗読している。それに坂井のぶこさんも行っている。すべてのテープがあるが、いまどこにしまってしまったか思い出せない。
案内状を送ってください。行けるとは約束は出来ませんが。
3月2日に、三鷹で山本陽子の詩を朗読する会を開こうと思っております。処女詩の、「神の孔は深淵の穴」と、「遥るかする、するするながらIII」です。

山本陽子 「神の孔は深淵の穴」

第454行ー499行 
わたしたちは、非常なる死者のもとにあって
        よみがえってはいない
だから死者の底からの深い静かなつぶやきに
        耳をかたむけずには
        いられない
        言葉いじょうの言葉
        沈黙のなかの沈黙
深淵にこだまするつぶやきの暗烈なる響きに
        目をとどろかせずには
        いられない
    そしてわたしたちも だまっている

正常がかくも静かな非常であり
日常がかくも単調な正常であることの
   深いいかりからかなしみがたちのぼる
最大のしっぽが最小の口にくわえられている(最大のしっぽが・・・)
   一瞬の この時の時に
   峻烈なる風が かくも静かに
   秋が これほど冷たく
   むすぼれて
   沈黙のみが
   ただひとつの言葉を発し
   壁のみが
   ただひとつの向背骨となるがゆえに
   屹立する 外なる壁のあいだ
   内なる壁の逆理をひめて
わたしたちは、壁のみによってむすばれる

秋の白いかがやきが 蒼い空に凝固して、
熱をうしなったかがやきが、ひかりその
ものとなるときにあって
   この等質価の世界のあいだ
   互の顔をば 知ることなく
   虚空のなか ただ関係のみが ある
   ひとりひとり、ひとりはひとりと
   逆転は、ただそれがためにあって
わたしたちは、それによって むすばれて
              ある
 絶望によってむすばれて、しかもおのれはつねにひとりであるこ
とは、すばらしいことである。そこにはめくるまめく高みと、骨を
きしませる深淵があって、人間が、おのれ自身となることのできる
広大無辺な空間をやどしているからである。人間が飛ぶことができ
て、しかも飛ぶことを拒絶する、それもすばらしい試みでありーー
なぜなら水平から、垂直に落下していけるのだからである。無限の
落下は無限の上昇に限りなく接近する。
 ただ 飛ぶことを すべての人々が、おそるおそるではあっても、
いま はじめなくては、人間が飛んでいく彼方もない。人間が飛ぶ
ときにのみ、空間は創造されてそこにある。

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