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2008年2月29日 (金)

日記

詩人とは、どのような人をいうのだろう。詩だけ書いて生計をたてている人は日本ではいない。詩的な人は、確かにこの世に存在している。詩を書くとか、書かないとかの事柄ではない。しかし、詩人というからには、やはり詩を書く人のことを言うらしい。
詩人としてのイメージを的確に表現した詩人がいる。それは山本陽子である。

よき・の・し

あらゆる建築をうちこわし、
いかなることばを
あとにのこすな<、
すべてをもえつき、
もやしつくせ、
全けき白さをひっさらって
          死のとりでをひとこえ
よきをひだにふくみのみ
さまざまなる夜をはらめ、

と彼女は書いている。しかし、山本陽子の詩を理解する詩人はほんの数人しかいない。しじんとは世に認められることを超越している。ただ生を燃え尽き果てることだけがその人の人生なのだ。
私の詩語りを聴いた人は少ない。それは仕方ないことだ。詩人の声を求めて旅をしているのだから。世間は山本陽子の詩も、私の詩語りも評価しないだろう。そのような狭い世界では生きていないからだ。ひたすら魂が燃え尽き果てるのを待っているだけだ。それは宮澤賢治の童話の「よたかの星」の世界にも近い。燃えて燃えて燃え尽きは果てる生き方が本来の詩人の姿なのである。それは山本陽子の詩もさることながら、彼女の絵の世界でも、まさしく燃え尽き果てている。詩人で田端あきらこという人がいた。彼女の詩や絵の世界をはるかに超えて存在者が山本陽子なのだ。H賞詩人やなになに賞をとった詩人の中には、そのような詩人はいない。本当の詩人は、透明人間のように、普通の人たちには見えないのだ。
山本陽子の絵を一点持っている。部屋の真ん中に飾ってある。その横に私の絵もある。
柏崎で昨年個展を行った。越後タイムス社の企画である。これは柏崎ライブのDVDに納められてある。それも元NHKカメラマンの高橋章さんが撮影をしてもらった。
次の詩集を上梓したい。そのためにも絵が売れることが一番よいのだが、誰か私の絵を購入してくださる方はいないものか・・・。今日は一日入院である。一回入院する度に三万円近く出費する。収入のほとんどない私はこれからどう生きていけばよいのだろう。そんなことを思っていたら、坂井信夫さんから詩誌『嶺』の仕事を頂いた。本当に有難い。いつも大変なときに坂井信夫さんに助けてもらっている。

2008年2月28日 (木)

日記

いまの時代は品格が落ちている。それは特に若者達に限ったことではない。ちょっと注意しただけで、逆ギレになる人が多い。お年寄りのもそのような人が多い。朝青龍だけの問題ではない。また中国の国民たちだけでもない。これ原因は、心の中心を失ったからである。中心とは、生きる基準や思想がもてない時代になったからである。経済成長とともに、人は人間としての生き方が狂いだしたのだ。仏法の悟りは、仏になることではなく、生きているものすべての思いやりの精神を持つことではないのだろうか。苦しみは自分だけではない。他者への思いやりがあればその自己の苦しさも克服できるものである。隣人をなんとかしてあげたいという気持ちをつねに持ち続ける生き方に、人の心は平穏でいられるものである。癌になって私だけが助かりたいとは思わない。同じ苦しんでいる人たちと共に闘って生きていたい。
昨日昔のビデオを何度も観た。まだまだ声の力が戻っていないことがはっきり解る。そして語りの未熟さを痛感した。詩明かりになれる語りを目指して努力していくことだ。それが癌と闘う意味にも通じる。
受贈詩集 山本萠詩集『遠いものの音』有難うございます。

2008年2月27日 (水)

日記

宗派を超えた世界観が欲しいものだ。それは自然に帰ることではなかろうか。自然を慈しむ心が、他者への思いやりを生む。それは慈悲の心でもある。語りの世界も他者への思いがなければ、語る意味も失うだろう。といってその思いだけでも語りの世界が形成されているものでもない。つねに自己に厳しい生き方が存在していないと、本当の思いやりにはならない。大乗の世界とは、真の思いやりの世界である。今の僧侶たちには、そのような人たちが少ないのではなかろうか。権威にしがみついている。これは、僧侶に限ったことではないない。詩人達の世界でも、同じことが言える。大切なのは、すべてが平等だと言うことだ。相手を思う心があって始めて対等になれるのである。知識で詩を書いている詩人は、虚しい存在である。人への愛の中で生きている詩人こそ、本当の詩人の姿である。詩人の肉声でも、本気になって声を鍛えている詩人はすくない。声を聞かせるということは、それなりの努力の果てに生まれてくるものである。いい加減に詩を書いているように、いい加減に声を発している詩人が余りにも多い。自然とは美しいが、その美しさを保っているのは、自然そのものの厳しさである。その厳しさが人の心を癒している。環境で地球が変になっている。経済成長ばかり気にしている政治の世界では、人の幸福を得ることはできない。北の国の人たちは、灯油の高値で苦しんでいる。もうすく春が来るのに、とうとう政府はなんら救援対策もしないで終わろうとしている。政治から思いやりが失われては、それは政治とはいえない。虚しい権力闘争でしかない。末期癌者は、本当に怒っているのだ。本当の思いやりを求めて闘わねばならない。

2008年2月26日 (火)

日記

朝日新聞の朝刊を見ていたら、東淵修さんが亡くなった記事が眼にとまった。亡くなったのは二四日、急性心筋梗塞で死去。七七歳。京都に平居謙さんから呼ばれていったとき、行く条件として東淵修さんを招くことであった。そこで彼と始めてお会いした。そして東京に見えたとき一緒に飲んだ。私の詩語りは、彼からの影響が大きい。詩人の声の魅力のある詩人が一人失った。三月二四日の詩語りは、彼に捧げる語りを行いたい。彼は詩人であって芸人であった。心からお悔み申し上げます。

日記

病気で亡くなって行く人もそれなりに辛いことだが、やはり残された人の悲しみははかり知れないものがある。豊かな思い出があればそれなりに死を受け入れられる。いま私は、自分と係わっている人たちを大切にしてゆきたいと思っている。人と人とが真剣になって付き合うことがいま私には求められている気がする。人を愛すると言うことは抽象的な事柄ではなく、つねに具体的なことなのである。その具体的なことを面倒臭く思うのは、まだ人生と本当に向き合っていないからではないのだろうか。身近な人を大切にして生きていたい。
昨年、『詩と思想』8月号で特集・詩人の肉声を行った。その本が完売したそうだ。評判も良かったということだ。それなら、なぜ続けて『詩人の肉声』の特集を行わないのだろうか。そして土曜美術社でも、詩人の肉声のイベントをおこなわないのだろうか。詩人たちは、まだ活字中心主義なのだ。朗読ではなく詩人の肉声を聴く。そのことが大切なのである。もっと詩人達よ天童大人氏が企画して行っている『詩人の肉声を聴く』に顔を出してはいかがなものだろうか。自分の耳で聴く。そして本物の詩人の肉声とは何かを探してみることだ。三月のイベントを載せておく。ぜひ一度は足を運んでみてください。

三月 公演 日程

第183回3月13日(木) Star Poets Gallery
   金井雄二
第184回3月14日(金) Star Poets Gallery
  福田純子
第185回3月16日(日) Star Poets Gallery
 伊藤比呂美
(この第185回に関してのみ開場17:30、開演 18:00 です。 )
第186回3月17日(月) ギャラリー華
薦田愛
第187回3月18日(火) ギャラリー 華    
  有働薫
第188回3月24日(月)ギャルリー東京ユマニテ 
   井上輝夫
第189回3月25日(火)ギャルリー東京ユマニテ 
   野木京子
第190回3月26日(水)ギャルリー東京ユマニテ
   田川紀久雄& 坂井のぶこ
第191回3月27日(木)ギャルリー東京ユマニテ
   山口真理子
第192回3月28日(金)ギャルリー東京ユマニテ 
    高柳誠
第193回3月31日(月)ギャルリー東京ユマニテ
   白石かずこ

ギャルリー東京ユマニテ(京橋)の公演時間は 開場:18:30, 開演:19:00

ギャラリー華(広尾)の公演時間は 開場:18:30, 開演:19:00

Star Poets Gallery(渋谷)の公演時間は 開場:18:30, 開演:19:00

(お間違いのないように御願いします)
入場料  予約 大人2,500円 学生1,500円(学生証呈示)  
     当日 大人2,800円 学生1,800円 (学生証呈示)

*御予約は直接、各ギャラリーか北十字舎へお電話かFaxでお申し込み下さい。

ギャルリー東京ユマニテ(京橋) 
104-0031中央区京橋2-8-18昭和ビルB1
Tel03-3562-1305 Fax 03-3562-1306

E-mail :humanite@js8.so-net.ne.jp
URL://www.kgs-tokyo.jp/humanite.html

ギャラリー華(広尾) 106-0047 港区南麻布5-1-5
Tel03-3442-4584 Fax 03-3442-4584

E-mail:gallery-hana@nifty.com
URL:http//homepage2.nifty.com/gallery-home/

Star Poets Gallery(渋谷) 154-0004 世田谷区太子堂1-1-13,
佐々木ビル2F-D
Tel 03-3422-3049 Fax03-3422-3039

2008年2月25日 (月)

ビデオで『息子の部屋』を観る。息子を失った家族の悲しみを描いた作品である。
私の知り合いのUさんの娘さんが亡くなった。それも乳癌である。その前に奥さんを亡くしている。あまりにも悲しい話だ。私の周囲でも数人が癌で亡くなった。とても辛い話でもある。昨夜は悲しみのあまり眠れなかった。
私だけが末期癌になっても生き抜いている。私は死んでいった人たちのためにも、生き抜いていかねばならない。癌で死んではならないのだ。人生をもっと積極的に生きていこう。
受贈詩誌『炎・77号』『山上三月号』

2008年2月24日 (日)

日記

朝三時に起きてしまった。昨夜はほとんど眠れなかった。別に不安を抱えているわけではないのだが、精神的に落ち込んでいるのかもしれない。
病院で患者の友達が来て、羽田空港拡張工事で、頻繁に事故が起きていると話し合っていた。小さな請負の人たちは、そのことが表面にでないようにしているらしい。工事がおくれると、自分たちの責任にされてしまうからかもしれない。眼に見えないところで、いろんな事が起きているものだ。
今日は午後一時半より、川崎詩人会がある。みんなあたたかい人たちの集まりだ。大きな会より、小さいだけに血の通った話し合いができる。自己報告や朗読や、そのときの問題など楽しく話し合える。川崎のミューザの四階の第一会議室で行います。誰でも参加できますので、暇な方は一度来て見ませんか。
現代人にとって仏教とは何かをもっと真剣になって考えてゆきたい。やはり人には一つの信仰をもつ必要がある。といってそれに縛られては何もならない。あくまで心の自由な信仰を追及していくべきだ。何処の国の人の信仰とも分かち合えるものでなければならない。信仰とは、まさにいま生きていつことの問いである。その問いを通じて人々との関わりを求めるしかない。
春一番が通り過ぎると、もうすぐ春が本当にくるような気がする。それにしても昨日の風は凄かった。今年は偕楽園の梅でも見にいきたいものだ。

2008年2月23日 (土)

日記

病院より九時半に帰宅する。病院では患者と長々と話し合っていたので、読書が進まなかった。柳田邦男著『人間の事実』を読み始める。病気に関するほんはなるべく病院で読むことにしている。
末期癌の治療には二つあると思う。
一つは、進行がんの場合は、西洋医学を信頼して治療にあたることだと思う。
二つは、進行性癌でない場合は、手術をしないことだと思う。癌は生活病なのだ。だから基本的には、自分で治す病気だと思う。自己との闘いの中で生き延びることが出来る。一日でも長くいきられればよいという楽な気持ちで生活をすることである。
私は、手術を拒否した人間である。それだからこそ、自分の生き方を公表して生きていたい。癌は自然に治ってくものだということを証明するためにも、何とかして生きる道を見出したい。本当は身近に相談する医師がいるとよいのだが、私には誰一人とていない。暗中模索をしながら生きている。
私には詩明かりになれる詩語りがある。それが本物になっていけるかが、癌の治療の鍵となる。癌だからといって呼んでくれるのではなく、田川紀久雄のライブを聴くと、生きる勇気が湧いてくる。といって呼んでくれるのならいつでも何処へでも出かけたい。末期癌者でしか解らない生命の力を表現してゆきたい。本物の語りは、安易な癒しの語りではない。山本陽子の詩のように、厳しいものである。妥協をゆるさない語りでありたい。人間の心と心の闘いの場である。巷で行われている生温い朗読とは訳が違う。その程度で心が救われるのなら、私の語りは必要としない。大泉の古書店からも、その後の連絡はない。多分ビデオを見て躓いたのだろう。小学校のPTAでも、激しい語りは断られた。いまなお山本陽子を詩壇は評価していない。全集もほとんど売れなかった。その中で、このたび得丸公明さんの山本陽子の詩の朗読はありがたいものだ。まだ世の中は捨てたものではないのだと思う。わかる人は、それなりに辛い人生を歩んできたのかもしれない。誰でも解る詩はある意味で危険である。しかし本物の詩は解るものである。それがやしくても、難解でも解るひとには解るものである。
山本陽子は現代詩手帖から作品の依頼があっても断った。彼女は知名度をもとめるより、本物の詩人になろういとした。いまこのような詩人が少なくなっている。日本詩人クラブ賞の候補作には、魂を揺さぶる詩が見当たらない。魂の深淵と向き合っていないからなのだ。闘う詩人とは、他者とではなく、自己と闘う詩人のことうをいうのだ。人に生きる勇気を与えられる詩人になってゆきたい。そのためにはこの末期癌との闘いの中で、何かがう生まれてきそうな気がする。
受贈詩誌『山形詩人・60号』
野間明子さんより、呉の酒粕を頂く。感謝。

2008年2月22日 (金)

日記

今日一日入院日である。腕の紫色は五日目で消えた。また注射が上手くいかないと腕が紫になる。
今の中国はどうしたのだろう。自分勝手な行動は(サッカーや餃子問題)目にあまるものがある。かつての精神性の強い中国人は何処に行ってしまったのだろう。この心の問題は中国人だけのことではない。今の日本人も未来が見えないで心がさまよい続けている。経済優先の世界は、もう終わりにきていることに気がつかないのか。このまま行けば地球は滅びる。三百年先まで持ちこたえてもその先は、いったい人類はどうなるのだろうか。
昨日、『未完の旅』三部作の前に書いていた詩を整理していたら、膨大な数がある。お金がないので手作りの詩集を作ることにした。題名は『神様の嫉妬』である。まず三十部くらい作りたい。売れれば治療費にまわせる。定価1500円。発行は三月下旬の予定になる。
癌のためなのだろうか。声がもう一つ出ない。いくら稽古をしても、思うようにならないでいる。自分の味を出せるまでには、あと数年かかるのかもしれない。ローマは一日にしてならずというから、あせらずに稽古をしていくしかない。そして魂を豊かにさせることがいま必要なのである。愛は大切であるが、もっと豊かな愛(神々の愛)を掴み取ることだ。詩集『生命の歓び』は、そうした心を掴まなければ一行もかけないだろう。ここ一ヶ月詩など書いていない。病院の治療もどこかで諦めて、長い旅をしたいものだ。例えば四国へ巡礼旅に行ってみたい。出来ればインドまで行きたい。最後まで詩人として生き抜きたい。そして雄大叙情詩を書き残したいものだ。今の詩界に求めるものなど一つもない。大切なことはただ一つの自分になることである。そのためには自然を自分の見方にした生き方が必要なのだ。一つになれば、詩の語りにも豊かさが生まれるだろう。いま自然の中で声を作りあげている。新垣勉さんがいうオンリーワンの世界をもとめて行けば、何にも惑わされることはない。三月に自然思想家(得丸公明氏)の声を聴くことができる。いまから楽しみだ。

2008年2月21日 (木)

日記

魂の癒しを求める行為は、人々の幸福に導く。そのためには、自然の豊かさが求められる。ここまで自然を破壊した都会は、人の心の癒しを日々奪っていることになる。自然の豊かさが、魂の豊かな宇宙を作りあげる。いくら豪華なマンションに住んでも、人は本当の癒しは得られない。物質的な豊かさは、それ以上の物質の豊かさを求めようと魂の力が働く。そこに人の不幸が生まれ、他者に対する優しささえ失われてゆく。聖書でいう「貧しきものは幸いなり」という言葉も、本当の人生の歓びは感知させるものである。
山本陽子は『神の孔は深淵の穴』の中で、「自由な人間は、いつも世界の放浪者であった。しかし、彼らはひとつのきずなに結ばれている。」と書かれてある。またタゴールは『生の実現』の中で「すべてを意識しすべてにゆきわたっている霊、プラフマンのなかに生き、行動し、自らの歓びをそのなかに見出すことに憧れた。」と述べている。
私達は物質的な豊かさから、離れ心の豊かさをもとめる旅に出かけなければならない。
詩界通信が送られてきた。日本詩人クラブ賞・新人賞・クラブ詩界賞候補が発表された。はっきいり言って碌な作品がない。役員たちの作品が多く候補になっている。役員は、候補から外れるべきだ。私の詩集など誰一人推薦する詩人がいない。お金が欲しいが、権威に満ちた賞は、もらっても意味がない。社会的に通用しない。医療費の支払いに困っているので、日本詩人クラブを今期でやめることにする。大井康暢氏が『岩礁』の中で述べているように、日本詩人クラブや日本現代詩会などは、空洞化している。早い話が老人クラブなのだ。老人でも青年のような気持ちが若ければ良いのだが、そうでもないのだ。大切なのは、詩に対して情熱を持つ詩人が見られなくなったということだ。私が何度も詩人の声(朗読)の普及を言っても誰にも相手にされない。私がこの日本詩人クラブに入っている意味がない。何にも役にたてないのだ。ああ悲しい。人は独りで旅をするものらしい。詩人は孤独であることが必要なのだ。本当の人間の歓びを見出す旅が、末期癌の闘いの旅のなかに隠されている。それを掘り起こすことが私の残された仕事なのだ。そして一回でも多くの詩語りライブを行うことが、私の生きがいでもある。

2008年2月20日 (水)

日記

今日六十六歳の誕生日だ。この日まで生きていられるとは思ってもみなかった。これからは、もっともっと生きる意味を問うて生きていたいものだ。
ビデオで『モーターサイクル・タイアリーズ』を見る。この映画はゲバラの青春を描いた作品である。最後の場面の音楽がとても印象的であった。私はゲバラのことをほとんどしなない。古本屋でゲバラの本があったら購入して読んでみたいものだ。
詩人の肉声は、言葉にたいして垂直に突き刺さっていかねばならない。ことばの意味のみを伝える、巷の朗読とはまったく別なものなのだ。世間もまだ、詩人の本当の声に気づいていたい。また詩人たちも、詩人の肉声について深く考えたことはほとんどない。アナウンサーや役者のように、聞きやすいものではない。声の発する出所が違うからだ。詩人の肉声は魂の叫び声に近いものでなければいけない。たとえば山本陽子の詩を語るには、声のスピードが要求される。彼女の魂の声についていくには、それなりの肉声が要求される。言葉を読んでいては、彼女の詩の持つインパクトは表現されない。彼女の横書きの詩は、読むことを拒絶している。彼女はひたすら孤独の魂の叫び声を求めている。その声を作りあげないことには、彼女の詩を声にすることは無意味である。まだ誰もがなし得ていない。たとえば天童大人氏が即興詩を声にするような方法が要求されるだろう。そして田川紀久雄が語る魂の叫びが要求される。この二つの声の力を持ってやっと山本陽子の詩が詩人の声として意味をもつことになる。
ここ数日下痢が続いている。身体の調子がいまいちである。
受贈詩誌『野の草など・17号』

2008年2月19日 (火)

日記

自由とは常に倫理が付きまとうものである。資本主義社会では、人間存在そのものの倫理より、経済的な倫理が優先されがちである。物質的な豊かさだけを追求資本主義社会では、ますます根源的な自由が奪われてゆくしかない。そして倫理感も薄らいでいくしかない。これが今の犯罪が抱えている問題なのではなかろうか。全人間的な生きる歓びを奪うのは、社会の視線である。真に自由であろうとすれば、この物質的な豊かさと、どこかで決別しなければならない。リヤカーマンを見ていると、そう思わざるを得なくなる。人間の自由は社会的には拘束されないものでなければ本当の自由はつかめない。だからこそ倫理を自由の立場から強く求められるものである。癌になってみると、そのことがよくわかってくるものだ。人間は孤独なのだ。寂寥の海に漂って生きるしかない。それを受け入れながら、人は真に自由をもとめ、生命の歓びを見出そうと懸命に生きるしかない。そのような精神的な試みが癌を克服していく決め手に繋がってゆく。山本陽子の詩は寂寥そのものである。しかし、その中に心を癒される世界も存在しているのだ。
私はまだこうして生きていられる。それがどんな寂寥の世界であっても、生きていられる歓びは私だけの歓びでもある。生きていられるから、この世の美しさが痛感もできる。人の心の優しさも解る。そして人の為に生きようとする勇気も湧いてくる。これが自由で倫理でもあるのだ。そう意味では末期癌は、素晴らしい世界でもある。人は死ぬのではなく、真に生きることに目覚めていくだけだ。生きることが結果的に死へと導いていくものである。今日も自由を求めて生きていられる。生に感謝。生かされている自分にも感謝。

2008年2月18日 (月)

日記

自由とは、自分で責任をとることから始まる。癌の手術を拒否する自由が私にはある。しかし、その結果、最悪の状態になったとしても、それは医師たちには責任のないことだ。自由とは、自己との内的な闘いを持つことによってはじめて自由が得られるものかもしれない。昨日テレビでリヤカーマンの行動は、まさに彼が自己との内面の闘いはてに得た自由なのである。アンデス5000メートル越えは、なかなかできるものではない。つねになぜこうもしてリヤカーをひきながら歩かなければならないのかという問いがつねに付きまとう。それだけ過酷な行為なのである。私は自分の末期癌と重ねて見つめていた。癌を背負って生きることは、彼がリヤカーをひいて歩くことと同じではないかと思った。
私もなぜ詩語りに打ち込んでいきているのかという問いが常に付きまとっている。他者にとってどうでもよいことを、無我夢中で打ち込んで生きていく。その中で癌と闘う勇気が生まれてくるのだ。冒険家とは、自分が倒れるまで行動を続ける人間のことだ。癌もまさに冒険家と同じ運命を背負っている。自分が倒れるまで詩語りに賭けて生きてゆくしかない。誰一人も聴き手がなくても行い続ける。それが自由の証なのかもしれない。自由とは過酷な世界のことなのだ。だから生きていく生命の尊さを強く感じながら生きていられる。最高の幸福なのかも知れない。

2008年2月17日 (日)

日記

朝日新聞に「患者といきる」という記事が毎日掲載されている。昨日は、抗癌剤の新薬で、指先の痺れや、顔に吹き出物ができたとか、そのような表情はくすりの効果があるからだといわれたそうだ。私は新薬など使っていないが、口内炎で皮膚科にいったた、薬がきいているからそうなるのだと言われた。「抗がん剤治療がすべてではありません。入院してもいいし、これからどうすごすか考えてみてください」といわれる。のれは次の薬がないということなのだ。そして新薬を受け入れることをやめたと書かれている。がん患者は、この抗癌剤でだれもが苦しんでいる。抗癌剤が本当にきくのか、何処まで抗癌剤の治療すればよいのかはっきりわからないのが現状なのだ。だから医師は、少しでも癌が縮まればすく手術をしないさいという。抗癌剤では本当に癌はなおらないのだ。だから医師は手術をしたがる。その結果は、再発を生むだけなのだ。癌患者の苦しみなど医師はそれほど考えていない。ただ治療をするばそれでよいと思っているんか過ぎない。人間らしく生きるのには、医師の話を半分受け入れながら、自分で生きるための治療をしなければならない。それには生命力を高めていくことが最大の力になる。そして、癌に効くと言われる漢方を煎じてがぶがぶ飲むことだ。いま私はそのようにして癌と闘って生きている。それゆえに手術を医師から勧められても今のところ拒否を続けている。癌は自分が治す病だと最近痛感している。癌は決してそれほど怖れる病ではないのかと思うときがある。つねに生きる歓びを感じながら生きることが大切なことである。最近は路傍にさく花を見て楽しんでいる。名も知らない花にかってに名前を付けて楽しむ。
詩誌『岩礁134号』『獅子座14号』が送られてきた。
井原さんからは味噌などが送られてくる。皆さんの人明かりに感謝するばかりだ。それに数人の人からカンパがあった。治療費に助かる感謝。生きる勇気が湧いてくる。

得丸公明さんから、三鷹天命反転住宅で山本陽子の詩を朗読するという案内が送られてくる。
3月2日 午後2時より4時
三鷹市大沢2丁目2-8 三鷹天命反転住宅202号室 倉富方
入場無料 予約してください。電話090-6302-0808(定員30名)
読む人 得丸公明(自然思想家)

2008年2月16日 (土)

日記

癌になって解ったことの一つには、普段のように生きることがもっとも大切な生き方であるということだ。あまり生きがいについて深く思考してもどうなるものでもない。普段のように生きられないのが末期癌者である。死を意識をしたときいあれこれと考えた。神谷美智子さんの「生きがいについて」も読んだ。生きがいとは高いものでも低いものの価値観でもない。普通うに生きられることが、本当の生きがいなのだ。私にとって本当の生きがいは、詩を書きそれが発表できて詩集にするころである。そして詩語りを行う人生が、普通のようにいきることでもある。生きがいの定義などない。人はそれぞれ違った生き方をしている。それを受け入れればよいことなのだ。
病院で点滴をうけるとき、注射針を三回もさされて、今はしにあとが紫になっている。それほど痛みが感じられないのでそのままにして帰宅した。点滴のときの注射はいつも怖いめにあう。何とかならないものか。血液検査のときの原さんという看護婦さんお注射はすこしも痛みを感じさせない。病室の看護婦さんもあのように注射ができいないものなのか。
川崎で私の住んでいる近くに、南高等学校があった。今は廃校になっている。川崎市では、最初から解体ありきで会議がすすんでいる。横浜では廃校の四校は有効再利用が決まっている。川崎では地域の活性化を最優先するらしい。南校の跡地には、大きなスパーがたち、娯楽場も建設する予定であると聴く。私は、南校の跡地を小さな森にしたらいかがなものだろうかと思っている。いまでも学校周辺は緑に囲まれている。それを利用して整備すれば、それほどお金もかからない。市民全体にも健康や環境にもよい。川崎でも麻生区は緑が多いが、臨海地帯は、あまりにも緑が乏しい。小さな森をつくる会を勧めていきたいものだ。
ターミナルケアでは、詩人の参加も必要ではないかと考えている。この問題はゆっくりと書いてゆきたい。

2008年2月15日 (金)

日記

今日は一日入院である。昨日の歯医者での治療はやっと終わりになった。
川崎アートセンターのことを昨日書いた。テレビを観ていたら、建物が障害者に優しい建物をうりものにしていたのに、階段に植木を植え視覚障害者の道を妨害していたり、その他の不備があったと報じられていた。それを改善するのに費用350万円をようして直したとのこと。そしてまだ直すところがある
ので来年の予算450万円を計上したとか。図面ではわからなかった、と役人は言い訳をするばかりだ。この責任はちゃんと追求すべきである。市民にそのツケがまわってくるだけの話で終わりそうだ。
それから川崎駅前のバス停も急な階段がある。エレベーターを付けるとかしなければお年寄りや身体の不自由な人が登るのは辛い。市民のことを考えない川崎市のあり方に疑問がある。
環境保護の法律を読んでいくと、抜け穴だらけの法律である。土建屋は儲かるようになっている。言葉だけの環境保護が日本の政策である。本気で自然を守る気が政府にはない。
私が語りの稽古をする公園には、イチョウの落ち葉が沢山ある。そこに雀が来て虫を見つけて食べている。そして木の枝にとまったりして遊んでいる。それを眺めていると心が癒される。小さな自然を大切にしていくしかないのだろうか。

山本陽子全集(全四巻)
一巻のみ品切れ
お申し込み先は
〒210-0852
川崎市川崎区鋼管通3-7-8 2F 漉林書房

2008年2月14日 (木)

日記

午前中歯医者に行く。
川崎のアートセンターで世界の戯曲の朗読劇が16日より行われる。それも入場料が前売りで500円である。当日券が1000円。演出は松田正隆で出演は平田満、占部房子である。私が理想とする入場料である。多くの人たちが朗読を聴く機会が、手軽に聴けるという魅力である。それもプロの役者の声でだ。詩人の声とはまた違ったものである。この記事は朝日新聞の朝刊に載っている。
四月から診療報酬の改正で入院費に負担が増える。貧乏人には辛い話だ。医療の質が悪くその上、治療代が高くなる。癌でも新薬には健康保険が適用されない。もしそれを使えば何十万もかかると言われる。病気が治るのは、金時代という世の中になってきている。
末期癌になったら、自分の力で治すという気迫が必要だ。癌の手術で、これば間違いなく治りますと言われ、手術に応じた。それから一年後の再発したという。そのような話が余りにも多い。確かに昔からみれば癌治療の質は良くなってきている。母が30数年前胃癌で亡くなった。その当事からみると大きな進歩がある。私が末期癌と宣告されても九が月も生き続けている。昔だったら、もうとっくに私の生命は亡くなっていただろう。日々生きる歓びを感じながら生きている。癌と闘うには、この生きる歓びを身に付けることである。ベートヴェンの「20のアイルランドの歌」を聴いた。とても楽しかった。そして日々の語りの稽古も楽しみながら行っている。楽しみながら生きることが癌の最良の薬なのだと痛感している。

2008年2月13日 (水)

日記

東京で雪が降るのが多いのは、やはり温暖化のせいである。地球の環境が猛スピードで破壊されている証である。もう人間の力ではどうすることも出来ないところまで来ているのかもpしれない。末期癌と同じ症状だ。だからと言って助からないと断言はできない。この私だって末期癌と宣告されたのが去年の四月二十五日だ。それなのに、思ったより元気で生きている。詩語りを通じて人明かりを目指して生きているからだ。詩人たちは天童大人氏がいう『詩人の肉聲』という意味がほとんどの人に理解されていない。朗読とは異なる世界であることがわからない。昨日『詩人の肉聲』にという短いエッセイを書いた。副タイトルは「天童大人の聲」についてである。つぎの「操車場」に載せる予定である。それから『生命の尊厳』の最終の校正を行う。これでお金さえできればいつでも印刷所に入れられる。自分で思っていたより良い詩集になりそうだ。
世の中は、嫌な事件が多すぎる。親、兄弟に対する殺人事件。先日足立区での事件は、以前私が住んでいた場所の近くだ。次の詩集のテーマは、生命の歓びを書く予定だ。しかし、このテーマは本当に難しい。相当な時間が要するかもしれない。この時代の中で生きる歓びを見出さなくてはならない。少しでも人の心の喜びを見つめて生きていたからだ。一度死(末期癌)を宣告された私だから、なおさら書いておきたいテーマなのだ。これは詩人としての大きな仕事になるだろう。
詩誌・操車場を読みたい方は、年間購読をお願いいたします。年間5000円です。

2008年2月12日 (火)

日記

本を読むより、音楽を聴く時間が長くなっている。チェルビダッケのブルックナーのCDを順に聴いている。さすがに凄い見事な演奏だ。音楽を真剣になって聴くのは青年時代に一時期あった。それがいつの間にか、何かをやりながら聴くようになってしまった。学生のころは、何処に行っても名曲喫茶があって楽しい時間を過ごしたものだ。私は新宿のらんぶるや渋谷のライオンに行って聴いた。そして、それと同時にジャズ喫茶にも行った。レコードを買えない時代が懐かしい。いつでも手軽にCDが買える時代は寂しいものだ。何かが間違っているような気がする。ものが豊かになると同時に、心の豊かさが忘れてもいく。
川崎にも素晴らしいホールがあって、人気のある指揮者もくる。それなのに、お金がないので聴きに行くこともできない。千円か2千円程度で聴けないものか。昔川崎駅ビルに映画館があってそこで川崎オーケストラが500円で聴けた。毎回聴きにいったものだった。
詩の語りも500円程度で行える場所があったら参加したいものだ。いいものを出来るだけ多くの人たちに聴いてもらいたいからだ。落語も聴きにいける場が少なくなっている。昔のように演奏ができる喫茶店がなくなって来ている。川崎にアケミという喫茶店があった。そこではジャズ演奏など行っていた。いまはこのような店が全国各地を見てもなくなっている。昔の喫茶店は市民文化の交流の場であった。いつかまた喫茶店をやってみたくなる。人と人との交流の場をつくりたいものだ。

3月2日に、三鷹で山本陽子の詩を朗読する会を開こうと思っております。処女詩の、「神の孔は深淵の穴」と、「遥るかする、するするながらIII」です。

もしこの詩が、お体の具合によいようでしたら、どうぞいらしてください。

山本陽子 「神の孔は深淵の穴」

第454行ー499行 
わたしたちは、非常なる死者のもとにあって
        よみがえってはいない
だから死者の底からの深い静かなつぶやきに
        耳をかたむけずには
        いられない
        言葉いじょうの言葉
        沈黙のなかの沈黙
深淵にこだまするつぶやきの暗烈なる響きに
        目をとどろかせずには
        いられない
    そしてわたしたちも だまっている

正常がかくも静かな非常であり
日常がかくも単調な正常であることの
   深いいかりからかなしみがたちのぼる
最大のしっぽが最小の口にくわえられている(最大のしっぽが・・・)
   一瞬の この時の時に
   峻烈なる風が かくも静かに
   秋が これほど冷たく
   むすぼれて
   沈黙のみが
   ただひとつの言葉を発し
   壁のみが
   ただひとつの向背骨となるがゆえに
   屹立する 外なる壁のあいだ
   内なる壁の逆理をひめて
わたしたちは、壁のみによってむすばれる

秋の白いかがやきが 蒼い空に凝固して、
熱をうしなったかがやきが、ひかりその
ものとなるときにあって
   この等質価の世界のあいだ
   互の顔をば 知ることなく
   虚空のなか ただ関係のみが ある
   ひとりひとり、ひとりはひとりと
   逆転は、ただそれがためにあって
わたしたちは、それによって むすばれて
              ある
 絶望によってむすばれて、しかもおのれはつねにひとりであるこ
とは、すばらしいことである。そこにはめくるまめく高みと、骨を
きしませる深淵があって、人間が、おのれ自身となることのできる
広大無辺な空間をやどしているからである。人間が飛ぶことができ
て、しかも飛ぶことを拒絶する、それもすばらしい試みでありーー
なぜなら水平から、垂直に落下していけるのだからである。無限の
落下は無限の上昇に限りなく接近する。
 ただ 飛ぶことを すべての人々が、おそるおそるではあっても、
いま はじめなくては、人間が飛んでいく彼方もない。人間が飛ぶ
ときにのみ、空間は創造されてそこにある。

メールのい人から返信がきた。身体の調子がよければ行ってみたい。
わたしも「遙るかする、するするながらⅢ」を語ったことがある。支倉隆子さんも朗読をした。それから野間明子さんも朗読している。それに坂井のぶこさんも行っている。すべてのテープがあるが、いまどこにしまってしまったか思い出せない。
案内状を送ってください。行けるとは約束は出来ませんが。
3月2日に、三鷹で山本陽子の詩を朗読する会を開こうと思っております。処女詩の、「神の孔は深淵の穴」と、「遥るかする、するするながらIII」です。

山本陽子 「神の孔は深淵の穴」

第454行ー499行 
わたしたちは、非常なる死者のもとにあって
        よみがえってはいない
だから死者の底からの深い静かなつぶやきに
        耳をかたむけずには
        いられない
        言葉いじょうの言葉
        沈黙のなかの沈黙
深淵にこだまするつぶやきの暗烈なる響きに
        目をとどろかせずには
        いられない
    そしてわたしたちも だまっている

正常がかくも静かな非常であり
日常がかくも単調な正常であることの
   深いいかりからかなしみがたちのぼる
最大のしっぽが最小の口にくわえられている(最大のしっぽが・・・)
   一瞬の この時の時に
   峻烈なる風が かくも静かに
   秋が これほど冷たく
   むすぼれて
   沈黙のみが
   ただひとつの言葉を発し
   壁のみが
   ただひとつの向背骨となるがゆえに
   屹立する 外なる壁のあいだ
   内なる壁の逆理をひめて
わたしたちは、壁のみによってむすばれる

秋の白いかがやきが 蒼い空に凝固して、
熱をうしなったかがやきが、ひかりその
ものとなるときにあって
   この等質価の世界のあいだ
   互の顔をば 知ることなく
   虚空のなか ただ関係のみが ある
   ひとりひとり、ひとりはひとりと
   逆転は、ただそれがためにあって
わたしたちは、それによって むすばれて
              ある
 絶望によってむすばれて、しかもおのれはつねにひとりであるこ
とは、すばらしいことである。そこにはめくるまめく高みと、骨を
きしませる深淵があって、人間が、おのれ自身となることのできる
広大無辺な空間をやどしているからである。人間が飛ぶことができ
て、しかも飛ぶことを拒絶する、それもすばらしい試みでありーー
なぜなら水平から、垂直に落下していけるのだからである。無限の
落下は無限の上昇に限りなく接近する。
 ただ 飛ぶことを すべての人々が、おそるおそるではあっても、
いま はじめなくては、人間が飛んでいく彼方もない。人間が飛ぶ
ときにのみ、空間は創造されてそこにある。

2008年2月11日 (月)

日記

地方財政は、どこも苦しい。この度の岩国市長選で米軍機容認の福田良彦氏が当選した。市民の47パーセントが米軍機に反対である。日本人は、どんなことがあっても憲法九条を守らなければならない責任がある。それが本当の世界平和に繋がる道である。政府のアメとムチ政策には腹が立つ。
昨日、漢方を買いに横浜の中華街に出掛けていった。中国では、胃癌に効くといわれている山伏茸を買った。お昼に元町の「三月うさぎ」でカレーライスをたべた。それから急いで家に帰り、『操車場9号』の発送をする。それからテレビでHV特集「鶴沢清治と竹本住太夫の幻の競演」を見る。二人の演奏を聴いて、現代性に欠けているような
気がした。清治さんは団平さんの流れを汲んでいる、そして住太夫は豊竹山城さんの流れを汲む。まったく違った気質である。確かに二人の芸は凄い。でもいま文楽が大衆から忘れかけられている。そこに問題がある。歌舞伎などでは中村勘三郎などが、歌舞伎を現代に蘇らせている。庶民の中に出ていって公演を行っている。それに対して文楽では、守りだけの姿勢しか感じられない。ここに二人の演奏を見て大きな問題を感じてしまう。それに演奏を聴いてもそれほど感動が味わえなかった。渡辺保さんなら何と言っただろう。
詩人の語りにも、やはり現代性を感じさせなければならない。詩が現代に受け入れられないのも、この現代性が希薄しているせいではなかろうか。声を出すことを忘れて、詩を書いている。もっと庶民を巻き込む運動をしていかねばならない。

2008年2月10日 (日)

日記

メールで朗読をする時のアドバイスをお願いします、とあった。その人は3月2日に三鷹で朗読をするそうだ。これを読んだら案内状を送って下さい。
朗読のアドバイス
その1 声にはその人の人生が現れる。普段に生き方が問われている。銭をとる朗読なら、普段の努力が必要である。もしそれほど努力をしていないのなら、銭は取るべきでない。
その2 マイクを使わず一時間声が落ちないで出来る声でなければならない。詩人の朗読は、いままで聴いていて感動をした経験がほとんどない。天童大人氏も、これからは朗読と言う言葉を外すことにしたと言っている。詩人の肉声を聴く。それだけでいいのだと私も思う。
その3 魂の一番深いところかた発する声を身につけることである。そのためには普段の精進しかない。声を発するには、遊びであってはならない。祈りのような気持ちで声を発することである。詩のボクシングなど、あれはなんでもないものだ。あのようなものに興味を持つようでは詩の朗読は、たかが知れたものでしかない。つねに自己との闘いなのだ。人には優しく、自分には厳しい生き方を貫くことだ。天童大人氏が企画している「詩人の肉声を聴く」に参加してみることだ。そこで自己を一年ほどかけて声を磨くことである。
その4 普段から精進をしていけば、声のカタチが生まれてくる。やはり自己のカタチを持つまでいかなくては朗読をする意味がない。名を売りたい為に行うなら、始めからやらない方が良い。
その5 本物の声は、人の心を癒すものに到達する。人に感動を与えることが朗読の目的ではなかろうか。だからこそ、人生を賭けても行うだけの価値がある。

私がこういっても少しもアドバイスになっていないだろう。詩人の朗読に対してはアドバイスができない。詩人は所詮素人なのだから、素の声でいいのだと居直ってしまう詩人が圧倒的に多い。その人は、人に声を発するという意味が全くわかっていないからそう言うのである。自己弁解をするような詩人の朗読であってはならない。だから私は詩人達の群れに入って語りをしたいとは思わない。
詩誌受贈 『いのちの籠・8号』『花・41号』お送りくださりありがとうございます。

2008年2月 9日 (土)

日記

昨夜精神的にパニック状態になった。ほんの数分であったが、ストレスが溜まっていたのだろう。気が短くなってきている。それをいつも抑えようとしていたのが、切れてしまったのだろう。すぐ思い立ったら直ぐにやらねばならないようにしていたのもいけない原因の一つだ。気楽に生きればよいのだ。そう思って生きていたつもりでも、癌の不安がいつの間にか精神を異常にしていたのかもしれない。癌とうまく折り合いをつけて生きていかねばならない。しかし、そう思うことによって逆に精神的に負担をかけていたのかもしれない。
末期癌の場合、医師では出来ないことが詩人(アート)にはある。それは心の問題を掘り下げて作品にしていく仕事である。それは第四の医学と呼んでも良いのだろう。柳田邦男の対談集『いのち』の中で日野原重明氏は次のように述べている。
『第四の医学は、患者がどのように困難な病気や重い障害のなかに置かれていようと、いま生きている限り、患者にどのような配慮すれば生活が豊かになり、生き甲斐を感じさせられるかといことを
考える医学です』とある。生き甲斐を感じさせる仕事はそれはアートの仕事ではなかろうか。その仕事に私は長年たずさわってきた。詩を書き、詩を語ることは人に安らぎを与える仕事でもある。そのような仕事をしていて自分がいらいらしてはどうにもならない。朝から反省しっぱなしだ。

2008年2月 8日 (金)

日記

2月1日 抗癌剤治療代 25230円
2月6日 胃カメラ検査 8840円
2月8日 歯医者 7180円
歯医者は来週差し歯を五本いれるので二万円はかかるといわれる。
こんなに払っていたら、生活ができない。今月はあと二回一日入院がある。スピーカーも買えてしまう。
ベートーヴェンの弦楽四奏曲「ラズモスキー」一番・二番・三番をウィーン・コンシュルト・ハウス四重奏団で聴く。美しく内面的にも深い演奏だ。このような音楽は良いスピーカーで聴きたいものだ。
私の声も温みのある声を発してみたいものだ。そして内面的にも豊かなものを作りあげてゆきたい。そのためにも日々の努力以外にそれを可能にする方法はない。あとどれだけ生きられるか解らないが、全力をかけて生きていくしかない。そしてお客様がいくらかでも増えてくれれば、医療費の支払いに助かるのだが。一回一回のライブでお客の数が一人でも増えて行ければ、生きている励みにもなるのだが、そう世の中は甘くないものだ。癌で生き抜くためにもやはり、人の助けが必要なのである。毎日死を意識しながら生きていなければならないことは、辛いものである。それを打ち切るのは、やはりライブに来てくれるお客さまの姿である。人間らしく生きて、人間らしく死にたいものだ。死を見つめながら生きて行けることは、最高の贅沢なのかもしれない。内面的に豊かになれば、芸の力も上がってくるのではないかと思っている。そのためにも、声の力を付けてゆきたいものだ。生きていることは、素晴らしいことなのだ。いまそういう気持ちで生きていられる。

2008年2月 7日 (木)

日記

妹の知的障害施設では、運営資金の不足から、あらゆる行事が中止されている。運動会、遠足、その他行事まで。これでは、まるで刑務所である。国は予算の切りつめであらゆる補助を打ち切っている。人が生きるという大切な問題を切り捨てている。国の予算が赤字だからといって、ここまで弱い者いじめはどうかと思う。
病院も末期癌者に対する人としてのケアが足りない。生きるというこ
とは、ものとしての治療ではなく、人間としての心のケアがあって始めて、治療という言葉が生きてくるものだ。昨日胃カメラの検査を行った。これからどう治療を進めていくのかの話はなかった。
私は詩を魂の底から語り切ることを目指している。そのためには、もっと声の力を取り戻さなくれはならない。尼崎安四さんや、宮澤賢治さんの詩を、深い魂の底から声を発してゆきたい。自作詩以外にもっと他者の詩人の詩を語り続くてゆきたい。
詩人で有名だからと言って、その人が優れている詩を書いているとは限らない。詩壇的で名があるだけの詩人もいる。埋もれている詩人の中にこそ、優れた詩人がいるものだ。詩人にとって知名度など何の役にもたたない。いかに真剣に生きているかということだ。真剣に生きているから、人の心も解る。詩を語るにも、いい加減な気持ちで行っていては駄目である。
末期癌に打ち勝つにも、真剣に語りに取り組むことによって癌が治る事だってあると思う。神様がお前には、まだまだやる仕事があるのだから、死んではこまると言うかもしれない。そのような気持ちで生きることが今の私には必要なのだ。

2008年2月 6日 (水)

日記

欲望は、確かに人間の生活を豊かにしてきた。しかし、この欲望がいま世の中の弊害になっているような気がする。しかし人間から、欲望を取り除くことは不可能である。いまの政治の世界をみていても、国民の視線に立って、といいながら国民の生活を無視した政策をとり続けている。政権を取りたいために国民を欺く。これが政治の世界である。医療の問題にしてもますます国民に負担を強いる政策になってきている。それなのに、国民は少しも利口にならない。それは自分の欲望を満たすことだけを優先させるからだ。弱い立場の存在を考慮しない。これはとても悲しいことなのだ。みんな幸せにならなければ、本当の自分の幸せも訪れない。宮澤賢治はそのことのために生涯を費やして生き抜いた。彼の精神の根底には法華経が根を張っていたからでもある。だれも生きているものは仏である。それならば皆が幸せにならなければならない、という考え方が横たわっていたのだろう。
在宅介護にも、まだまだ大きな問題がある。狭いアパート生活では思うように在宅介護もできない。それに医師の不足や、介護の不安がある。医療のあり方を考えて生きていかねばならない。そのためには今の政治の流れを変える必要もある。本当に困っている人たちにお金が流れる政策をしなければ、ますます貧富の差が大きくなるばかりだ。自民党も民主党も信じられない。このまま二大政党には不安がのこる。少数の意見が取り入れられなくなってしまう。詩人はこのような問題にどう対処していけばよいのだろうか。

2008年2月 5日 (火)

日記

詩の朗読のスタイルには二つある。
まず詩の朗唱。そして詩語りである。朗唱の第一人者は天童大人であり、詩語りでは多分私ではなかろうかと思う。
詩の朗読は、単なる詩の文章を読むのが朗読だと思っている詩人がまだ圧倒的に多い。天童氏巡回朗読会から、朗読という言葉を外したのは正解だ。詩人の肉声ただそれだけで良い。160回を越えてその地点まできたことにはそれなりの意味がある。ポエトリーヴォイスサーキットに参加している詩人達も、他の詩人の声をほとんど聴きにはこない。人から学ぶという熱意が感じられない。今私は末期癌なので、聴きにいくことは出来なくなった。といても50回に及ぶ詩人の声をDVD化して、詩歌文学館に寄贈した。
天童氏のブログでは、やっと一時間声がでる詩人が現れてきていると書かれてある。ポエトリーヴォイスサーキットに参加しているから、やっと詩人の声の意味が解ってきたのだと思う。このような企画がなかったら、詩人たちはいつまでも、救いようのない朗読を行い続けているだろう。しかし、詩人の声といっても、本当のことを言うと大変なのはこれからである。自立して詩人の声を発する人がでてくることだ。
いま、私は日々精進しているが、体力的に声が以前より声が出にくくなっている。声を出すことを維持することで、今の私は精一杯である。しかし、声を毎日発していると、何かが変わってきている。親鸞さんは、自分を救うことが他人を救うことにもなるという。自分を信じて生きることが、この詩人の声にとっても大切なことだと思う。いま私は初期の詩集の語りの稽古をしているが、とても楽しく行っている。この楽しく行うことが、この癌になってから生まれてきた。やはり持続して行うことが一番何かを掴むには必要なことなのだ。

2008年2月 4日 (月)

日記

昨日久しぶりの大雪。私が小学生の頃横浜で大雪に出会ったことがある。地球の温暖化で東京もあまり雪が降らなくなった。今日は立春である。旧暦では十二月二十八日である。
一日本も読まずテレビも見ずに過ごすことはとても心が洗われる。昨日は雪の降る様子を見ながら過ごした。そうすると一日がとても長く感じられ、いろんなことを考えさせてくれた。都会生活だと、なかなか無為に過ごす時間がもてない。このことは、生きていてストレスがたまるだけの生活でしかない。ぼけっと過ごしていると、いろんな関係性が見えてくる。私は人明かりといいながら、人間同士の関係性が少なすぎるような気がした。確かにいろんな友達はいるが、それが具体的に繋がっていないような気がしたりする。具体性のない関係が現代社会の構図なのかもしれない。サラリーマンには同僚がいるが、それが本当の意味で人間としての関係性が少ないのではなかろうか。人間同士は本当に腹を割って語り合う習慣が希薄になっている。詩の会でも、本気で詩について論議することもない。この本気で生きている人が周囲を見渡してみて、あまりいないような気がする。
ときたま一日なにもしないで過ごすことは精神的にとても良い。知識だけでは、人の心の中には入っていけない。詩語りライブを行ってゆくことは、そういう意味でも私には大切な仕事のよな気がする。ミニ公演を多くやってゆきたいものだ。
寒さで風邪をひいたようだ。咳と鼻水がでる。それに胃の調子もすこし悪い。

2008年2月 3日 (日)

日記

いま古本屋さんは大変だと感じてしまう。それは本があまりに安く売っているからだ。それでも本がうれないのだ。昨日一週間振りに古本屋を覗いてみた。100円コーナーと200円コーナーがある。そこで買った本を並べてみると。
宮本常一著『私の日本地図』壱岐・対馬紀行(同友館)
荷風全集第二十一巻『断腸亭日乗一』(岩波書店)
定本坂口安吾全集第四巻(冬樹社)
女たちは、いま(260人の世界の女性が語る)(晶文社)
素顔のフランス通信(晶文社
花田清輝著『随筆三国志』(筑摩書房)
山下清著『裸の大将』全四巻(ノーベル書房)
堀田善衛著『定家明月記私記』(筑摩書房)
金子大栄著『親鸞の世界』(徳間書店)
合計十三冊購入しても二千円ちょっとである。
この中には川崎に越してくる時に古本屋に売ってしまったものがある。
若者達が勉強しようと思えば、本安く買える時代だ。携帯でメールなど行っている時代ではないはずだ。このままだと日本人が駄目になってしまう。機械文明をできるだけ処分することだ。最低必要なものだけを選んで生活することが、今を生き抜く秘訣でもある。
ものを書く人間にとって、本が売れないことは寂しいものだ。詩集などは、まったく売れない。確かに今の文学界の世界は、貧弱になっている。心から感動する書物が少ない。時代に流されないものを常に求めていかねばならないのに、ものを書く人間は時代の波にのいらないと売れない。ものを書くということは、商売にするのではなく、あくまでも自己探求を目指して生きることが大切である。
いま私は、詩語りに打ち込んで生きている。なかなか本を読む時間が少なくなっている。癌のためか、いまいち声が出てこない。それは努力で克服したいと思っている。見果てぬ夢に向かっていつも生きていたい。

2008年2月 2日 (土)

日記

病院から九時三十分に帰宅する。
山尾三省著『深いことばの山河』を読む。
自己を捨てて宇宙の法則に従って切ることが癌にとっては必要なのだ。詩は個を通じて、個が無になっていく過程を記録する文学かもしれない。声を発することは、個を捨てる行為でもある。
声を発することは、無になることが大切な要素である。だから自然と声が大きくなってゆく。この宇宙と向き合う声が求められるからだ。そのことがほとんどの詩人には解っていない。このことが解っている詩人は天童大人さんだけかもしれない。昨日天童さんから電話を頂いた。そこでこれからは朗読という言葉を使わないといってきた。それはとてもいいことだ。役者やアナウンサー達の朗読とは、本質的に詩人の朗読とは異なっていなくてはならない。でなければ、詩人が自作詩や他者の作品を朗読する意味がない。朗読でお客に感動をそう簡単には出来るものではない。またそう簡単に感動を与えるなんていうべきでもない。それはお客が決めていくことだからだ。私など二十数年も行ってきて一度でも納得のいく詩語りをしたためしがない。それも毎日精進していてものことだ。宇宙のいちのの響きを伝えるのが詩人の役割である。それは個の存在を通してしか行われない。そこに詩人が生きている意味が問われてもいる。
医師と久しぶりに話会うことができた。来週の水曜日に胃カメラの検査を行うとのことだ。手術をしない以上定期に検査が必要なのである。その検査によって抗癌剤の治療方針が決まっていくからだという。

2008年2月 1日 (金)

日記

大きな平和運動はどこかインチキ臭さを感じてしまう。詩は生命の尊厳を歌い上げる世界だ。そして個の問題を深める世界でもある。社会から見捨てられている詩を通じて、地球の平和を考えて行くべきだと思う。
二月は私の誕生日の月である。末期癌と宣告されて十ヵ月経過した。精神的に今が、もっとも辛い時期でもある。この辛い時期に、地球のことを考えていられることは、幸せなことだ。人は最期まで人らしく生きていたいものだ。詩語りのお客はそれほどいないが、ミニライブを通じてこの地球のことを話し合ってゆきたい。詩集『生命の旅』の第二章は(生命の尊厳)である。作品は書き終わっている。制作費のメドが経たないだけだ。私の詩集を買ってくださる方が増えれば、詩集の発行も可能なのだが。第三章は(生命の喜び)である。すべての生き物の目的はこの生命の歓びを感じることにある。それがまた平和運動でもある。
今日は一日入院である。

2 月巡回朗読会日程

第170回2月1日(金)ギャルリー東京ユマニテ
野村喜和夫
第171回2月2日(土)ストライプハウスギャラリー
水嶋きょうこ
第172回2月4日(月)ギャルリー東京ユマニテ
薦田愛
第173回2月5日(火)ギャルリー東京ユマニテ    
三井喬子
第174回2月6日(水)ギャルリー東京ユマニテ
財部鳥子
第175回2月7日(木)ギャルリー東京ユマニテ      
高柳誠
第176回2月8日(金)ギャルリー東京ユマニテ    
中村恵美
第177回2月18日(月)ギャラリー華     
ワシオ・トシヒコ

第178回2月19日(火)ギャラリー華       
田中健太郎
第179回2月20日(水)ストライプハウスギャラリー
小柳玲子
第180回2月21日(木) ギャラリー華
武井邦夫
第181回2月22日(金) ギャラリー華
稲葉真弓
第182回2月23日(土) ギャラリー華
武藤ゆかり

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