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2008年1月19日 (土)

日記

病院より10時に帰宅。
手術を拒否したことによって、担当の医師は一度も病室に見られなかった。次回の入院の手続きも行われていない。少し心配である。
現代高齢化や癌の死亡率が高いにも係われず、そのケア対策が貧しい。ほとんどの病院でか死にたいするケアがなされていない。だから老人の殺害事件も頻繁に起こっている。事件がおこらなければ何も打つ手がないのが今の社会の現状である。それを打開するのは市民運動が必要である。市民の協力がなくてはこの死のケアの問題が高まっていかない。いまの日本では死は病院任せである。死がみえないところで営まれている。
手術を拒否しのいは、最後まで人間の心を持って生きていたからである。生きることは、最期の死を讃歌できる人生を送ることではなかろうか。人生を生きていることは、自分自身を素直に見つめて生きることでもある。そしていつも人明かりで人生と向き合っていたい。
病院の看護婦さんから21日のライブの予約を頂いた。この小さな励みが今生きている自分を支えてくれている。三味線を使わず、どれだけの声で語れるか試してみたいと思っている。癌は死への道ではなく、人生を再生させてくれる場でもある。だからどんなに辛くても生きていける場でありたい。病院や医師うあ看護婦さん達は、病院で患者と係わるのではなく、病院に以外でも緩和ケアを心かげる必要があるのではなかろうか。そのために社会人としてお互いに世の中の人明かりを目指して生きてゆきたいものだ。慰安大切なのは心のケアを出来る医師と看護婦が病院では必要である。それを育てる教育センターのようなものが地域的に作る必要があるように思われる。その中で医師や看護婦さんだけでhなく、患者の参加させてケアの問題を考えていくことが大切である。表面的に豊かな社会であるが一歩深みに入れば想像を絶した不幸な時代でもある。自分だけの幸せは、世の中を不幸にさせる最大の原因なのである。

人は豊かなる無から生まれ
豊かなる無の世界に帰ってゆく
その中で人は愛を学んでいける
それはこの宇宙で人間だけの特権でもある
仏陀の微笑みは無の微笑である

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