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2008年1月31日 (木)

日記

この宇宙で青い生命体は地球しかない。地球は誰のもでもない。この地球に存在しているすべてのもののためにある。それなのに人間のエゴのために戦争をしたり、生きものたちを死に追いやっている。人間の寿命は50年から80年ほどだ。あっという間に人生は消えてゆく。だから相手の人生を尊重しお互いに助けあって生きていかなければならないはず。現代文明は、その相手の人生を尊重することを忘れ去れる文明である。物質の欲に取り付かれた醜い生きものになっている。現代文明を拒否しては生きられないが、できるだけ欲をすてて自然体として生きることが大切である。
無農薬野菜は確かに美味しい。自然野菜を手に入れるには、それなりのお金を払わないと手に入らない。お金を稼ぐには、人を押しのけて稼ぐしかない。そのような人生は虚しいものだ。私も出来れば田舎で暮らしたい。そうすれば癌も簡単に治るのかもしれない。といって田舎で家を手に入れるにもまずお金が必要だ。
地球は青い生命体である。ということは自分の生命と同じだ。自分を愛するように、この地球そのものを愛したいものだ。宗教や人種を超えた愛を育てることが人間の生きる目標ではなかろうか。
今日は、ベートーヴェンのヴァイオリンソナタを全曲聴く。

2008年1月30日 (水)

日記

喜納昌吉著『いつの日か花を咲かそうよ』という本がある。かれの成世界平和の願いは熱い。昔新宿の駅で彼のコンサートを聴いたことがる。かれは群集を動かすパワーがある。それはまるで神がかり的である。そのときは何故あのような力がどこから生まれてくるのか解らなかったが、今は解る気がする。
イラクには核がなかったにもかかわずブッシュ大統領が戦争に踏み切ってしまった。そしてそれに乗って日本も自衛隊を派遣してしまった。そしていまは海上で石油補給を再開してしまった。元首相小泉がとった行為に対して、誰も何も言わずにいる。ということはわれわれもアメリカの政策に加担していることになる。環境問題、地域紛争と今の地球は悲鳴を上げている。
物の豊かさは、心の貧しさを増やすだけだ。現代人の心は、切れやすくなってしまった。我慢することが出来ない。自然と対話をすることがほとんどない現代生活ではそうなるのもある意味では当然なのかもしれない。本当の幸せを求めて詩を書いてゆきたいものだ。『生命の旅』の第三章は「生命の歓び」である。いま日々生命の歓びを感じて生きている人は少ない。癌になって私はやっと、この生命の歓びの意味と出会っている。この生命の歓びを伝えることも詩人の役目だと思う。そして世界の平和を祈り、隣人を愛する心を養ってゆきたい。そのためには、いやなものははっきりと嫌だと言っていく姿勢が大切でもある。これから詩語りライブを通じて多くの人たちと語りあってゆきたい。

2008年1月29日 (火)

日記

昨日、東大泉にある古書店「ポラン書房」に行く。イベントをしてもらえるかを相談する。資料として、詩集と柏崎のライブのDVDを渡す。とても雰囲気のよいお店である。ご主人も素敵な方であった。
いろんな人たちに生命の尊さを語り伝えてゆきたい。東京・神奈川なら投げ銭で何処でも詩語りを行いにいきます。もっと多くの人たちに詩語りを聴いていただきたい。末期癌には、明確なる生き方が大切なのである。癌の特効薬はない。日々の生き方が一番大切なのである。楽しく生きる。笑って生きられる。多くの人との出会いの中で生きる希望を受け取ることだ。そして人明かりになって生きていければ、癌なんて少しも怖くはない。癌によって生かされる人生を送ることが出来る。
自分から詩語りが出来る場所を見つけていかないと、なかなか行うところがないものだ。詩の朗読は、まだそれほど世の中から受け入れられてはいない。偽善的な朗読が多い。本当の魂の叫びの朗読は、ほとんど聴くことができない。安易な癒しの朗読は、かえって心をかたくなにしてしまうものだ。役者や芸人達が組んで行う朗読会は、どこかいんちき臭いものが感じられる。本当の詩の朗読ができるのは、詩人しかいないはずだ。それなのに魂の声を発することのできる詩人はほとんどいない。本物の詩語りを目指して死の瞬間まで生き抜くことだ。

2008年1月28日 (月)

日記

昨日の大阪女子マラソンで福士加代子は最後まで走りぬいた。三度も転倒しながらも。順位は19位であったが、そのようなことは問題外である。30キロまでトップを走っていた。最後は観客全員の声援の中を走り抜いたのだ。癌患者の私にとっても、生きる勇気を与えてくれた。最後まで走り抜くこと、それが私に与えられた使命なのである。
いま私はベートヴェンの全作品を聴き始めている。青年時代もっとも感動して聴いていた。残された人生の中で、彼の曲の全曲を今丁寧に聴き始めている。今日はチェロソナタを聴いた。三番がとても良かった。モーツァルトやバッハの全曲も今年中に聴きたいものだと思っている。
いま世界中が民族が対立で苦しんでいる。そして多くの難民たちで溢れる。子供達の苦しみを見ていても何も出来ないでいる。詩と関わりあいながら生きている。どうしてそれらの問題を自分の問題として受け入れていくか。詩語りを通して人明かりになることしか出来ない。そのためにも福士加代子のように、転んでも転んでも何度でも立ち上がりながら前に進むことしかない。なかなか詩語りの場所もない。待っていては何も始まらない。積極的に動き始めることだ。

2008年1月27日 (日)

日記

ここ数日腰の横が痛み出している。トイレで便をするにも苦痛を感じる。原因がどこからきているのか解らないのが不安である。
スポーツ選手の練習は、傍からみていても凄さを感じる。それに比べると詩人はどんな練習を積み重ねて生きているのだろうか。言葉を生む前に、どうのよに世の中と関わりあって生き、そこから何を吸収してものを書いているのだろうか。詩人達はもっと世の中に出ていっていろんな場所で発言していくことが必要ではなかろうか。
末期癌と詩人達にいったら、詩誌や詩集がほとんど送られてこなくなった。詩人とはそのような人種なのだ。といってこちらも、送料のお金もないのだからほとんど送っていない。いや送るのではなく、治療費を稼ぐために買ってもらいたい。このような考え方はエゴな発想であるかもしれないが、現実はそうであるからいたし方がない。病院に安心してかかれなくなる時代が到来する可能性もある。動物でも癌にかかると100万円ほどかかるといわれている。保険が動物にはないからいたし方がないのかもしれない。貧乏人は、犬猫も飼えない。犬猫が捨てられて処分されているのが年間30数万いるそうだ。犬が11万8千匹で猫が23万5千匹だそうだ。これも人間のエゴがほとんどの原因である。
老人ホームや障害者施設などで、そのような犬猫を飼うことはできないのだろうか。動物を飼うことで寝たきりのお年寄りが起き上がって元気になった話もある。生きものと接することによって、人の心は活性化されるものである。愛犬家の松野頼久衆議院(民主)の運動で国が、施設の犬猫のえさ代補助を出すこが決まった。国会議員の中にも、捨てられていく動物のことを心配する議員がいる。党派を超えてこのような議員を応援したい。
この記事は昨日の朝日新聞の夕刊からの記事である。
川崎の南高校の跡地はそのままになっているが、学校の周りには樹木がそれなりに植えられてある。この南高校の跡地は、小さな森をつくることにしたらどいかがなものなのか。浜川崎周辺はどんどん団地が立てられている。私のところから風景が消え去れていくばかりだ。高層団地は、ある意味の暴力である。いまいかに自然を取り戻すことが大切なことなのか、真剣になって考えていくべきである。そして小さな森を作る運動を始めようではないか。

2008年1月26日 (土)

日記

病院から9時半に戻る。
病院で堀田善衛著『方丈記私記』を読む。「諸行無常とは、かかる冷静にして明確な認識のことを言う」と書かれてある。無常という甘い言葉に騙されてはならないということだ。
いま私はJANIS JOPINNのCDを聴いてこれを書いている。久しぶりに聴いている。
病院でのお話。隣の患者が2センチほどの腫瘍がある、と医師いわれる。すぐとったほうがよい。そのためには焼いてしまう方法がある。この患者は数週間前に同じ治療をしたばかりだ。そのときはこれで万全だと言われた。それがCTを撮ったら新たに見付かったということだ。患者は焼いてしまっても身体には関係ありませんかと訪ねる。医師はそれは焼いてしまうのだから、そこのところの細胞は死ぬことになる。前と同じとはうえない、とここと。患者は手術の返答に困っていた。医師は来週中には行いたいのだがと強く要求する。私は横で聞いていて、不愉快な感じをいだいた。二つの方法がある。採ることと、そのままにしておくことだ。そのままにしておく場合は、私のように今生きている目的を持っている場合だ。自分の仕事を優先させる立場にいること。そして採る場合は、西洋医学を信用して一日も長く安していきたいという願いがある場合だ。そのためには、もっと医師からのあたたかいアドバイスが必要だ。手術を行う場合。患者の人格を知って発言すべきだと思う。私は医師ではないので、黙って聴いていた。
いろんな文献を調べてみると、手術をしないで、自力で直そうと思う人の方が、生きているときの時間が長いとの報告がある。癌の場合原発がどこにあるのか解らない以上手術はしないほうがよいと思う。そして癌細胞が残る危険性のある手術は、手術をしないですむのならしない方がよいにきまっている。看護婦室のまえに患者にアドバイスの用紙が貼ってあったが、患者はなかなか読まないものだ。これは入院するときにプリントして渡したほうが良いと思う。患者からなかなか医師や病院にたいしては言いにくいものだ。昨日も今日も一度も医師は現れなかった。今まえのCTの結果もわからじまい。それにいつもレントゲンの撮影は三枚なんだが昨日は四枚撮られた。一枚は大腸あたりである。なにも説明がないことは不安を募らせるだけだ。
看護婦さんが、ライブよかっわと言われた時、嬉しかった。

2008年1月25日 (金)

日記

今日は一日入院である。
南極の氷のとける速度が速まっている。このままだと大変なことになる。企業優先の政策は、未来の子供達に大きな負担になってゆく。株の先物取引きなどで、石油や大豆が高値になっている。資本主義社会は、行き詰まりになっている。このままだと富裕と貧困のさがますます広がってゆくだけだ。物質的な豊かさは、本当の幸せを生むことはない。あくまで均等のとれた生活が人の心を豊かにする。ここまで豊かになってしまった日本人は、戦後の貧しい生活には戻れないだろう。今朝の冷え込みで起きるのが辛かった。昭和25年の年の冬はどのような暮らしであったのだろう。床の中で思い出そうとしたが記憶があいまではっきりと思い出せなかった。川崎駅前の図書館がある建物で『高度成長期の子供達』の写真展を行っている。こんどの日曜日には見にいってみようと思っている。
昨日から次の詩集『生命の旅』(第二章)の語りの稽古を始めた。それと同時に『炎』の稽古にも入った。お客に聴いてもらえる語りを目指して生きてゆきたい。
最近プログを見てくれる人が増えてきている。末期癌で、毎日どう生きて何を考えているのか、同じ癌患者に勇気を与えているのかもしれない。私も闘病記などを読んで勇気を沢山もらった。同じ末期癌者のプログを覗いてみたい。お互いに生きる勇気を与えることが出来ると思う。

2008年1月24日 (木)

日記

このブログはだいたい朝の5時半ごろから打ち始める。
昨日は雪が降った。そのためか何もしないで一日過ごした。新聞配達の人は大変だなと思って新聞をひろげた。前日の詩語りのビデオを見てなあれこれと考えてしまった。声の中に映像を浮かべるような声になっていなかった。そのために後半部分が長く感じてしまう。詩には物語り性が少ないために、この映像感覚を作り出すのが難しい。
私の部屋は電気ストーブが一つしかないので、とても寒い。寒いと本を読むのさえ億劫になる。北の国の人たちは毎日どのような生活をしているのだろうか。灯油も値が高いので生活も大変だろう。国は貧しき人々に対する対策が遅い。法律があるからすばやく行動が出来ないのだろが、法律を越えた対策が必要な時もある。新潟にアザラシが現れたが、すぐに保護できない。農林水産省の許可がおりなければ何も出来ない。三日目にやっと水族館の人たちが保護した。役所の対応がやはり遅い。
Nさんからの手紙に、ご主人が「田川さんの生命力なら、癌で死ぬわけない、俺、言ったろう。あの人は長生きするよ」と書かれてある。そうでありたいと願う。操車場の作品が少しづつ集まり始めた。Sさんの詩に、食道癌で末期であった人が一月になくなった、と書かれていた。私と同じ頃に末期癌と告知された。彼は私の近くの尻手に住んでいた。末期癌であることは、やはり日々生きていることに不安を感じて生きざるをえない。癌であることを忘れて生きることだといわれても、そういう意識にはなかなかなれないものだ。多くの人たちが癌で亡くなってゆく。だからこそ、私は末期癌に負けないで一日も長く生きることに努めてゆきたい。末期癌を公表して生きることは、癌で亡くなっていった人たちに対して祈りの気持ちからでもある。そして、同じく悩んでいる人たちにも共に闘いながら生きる勇気になれればと願うからでもある。詩語りを通じて頑張って生きている姿を表現することに私がいま生きていることに意味があると思う。これからも皆様の暖かい応援が生きる力になってくれる。人はお互いに助け合いながらしか生きていけないものだ。

2008年1月23日 (水)

日記

日本画家の片岡球子さんが103歳で亡くなった。彼女は若い頃、帝展・院展などは「落選の神様」といわれていた。片岡さんの絵は、個性的で観るものを楽しませてくれた。最期まで絵は自由を求めて続けていた。伝統を守ることは、どこかで伝統を壊してゆくものも必要なのである。
詩人たちの朗読では、声を鍛えるとみんな同じようになるから嫌だという人が多い。個性とは、何もしないところからは生まれてこない。声だって鍛えぬく努力を怠っていては人の心を打つ朗読などできるはずがない。長谷川龍生さんも、私の語りを聞いてとても刺激的だったと言っていたと木下晋さんから電話で伝えてきてくれた。
次の詩語りライブは3月26日東京ユマニテで行われます。エロチックな詩を語ってみたいと思っています。男と女の愛を描いた作品を・・・。一人でも多くの人が来てくれることが、私の生きる生命力を高めてくれる。それに治療費にも助かる。これからも独自の語りの世界を追求してゆきたいと思っています。
受贈図書・山本崩詩集『草の瞳』・山本崩エッセイ集『沈黙の・・・深い声』

2008年1月22日 (火)

日記

昨夜今年初めての詩語りライブを行った。『生命の旅』(第一章)の出版ライブである。お客には、木下晋さん、長谷川龍生さん、坂井信夫さん、宇田禮さん、根本明さん。それに病院の看護婦さん二名が来てくれた。その他にも知らないお客が見えた。有難かった。一時間二十分の語りはそれなりに充実であった。途中に坂井のぶこさんが『安曇野考』から一篇語った。終わってから天童大人さんと居酒屋で飲んで帰宅した。詩人たちの朗読の難しさを話した。人に聴かせることをもっと磨いていかないといけない。次回には聴かせることを考えながら語りを行ってゆきたい。聴きに来てくださるお客の心に支えられて、いま末期癌と闘って生きていられる。甘えた語りはできない。もっともっと精進していかなければならない。つねに自己との闘いが語りをより良いものにしていく。そして語りを通じて人明かりになれれば幸いである。詩の世界はマイナーな世界であるが、語りを通して詩の素晴らしさをいくらかでも人に理解されてゆければ嬉しいのだが。声の力も70パーセントまで回復してきた。昨夜は、まだ後半部分に疲れが出てしまった。これからもっと体力をつけていかねばならない。帰ってから坂井のぶこと反省かを行った。

2008年1月21日 (月)

日記

2008年1月21日(月)
第161回 「詩人の肉聲を聴く!Poetry Voice Circuit(巡回朗読会)」 
ストライプハウスギャラリーにて 田川紀久雄『生命の旅』出版記念ライブ
田川紀久雄&坂井のぶこ
今年最初の詩語りライブです。開場は7時 開演は7時30分

今日は旧暦では12月14日である。赤穂浪士の討ち入れの日である。江戸もこの時分には雪が降ることが多かったのだろう
か。昨日の天気予報では夜中から雪になるとのことであった。
今の政治はあまりにも歪みすぎている。本当の意味での国民にたいする政治が行われていない。ますます弱者切捨ての政策が始まっている。脳梗塞のリハビリも、医療の上限日数が設定されている。治療の見込みがなくなると、医療からの切捨てが行われる。癌も金持ちが良い医療をうけられ、貧乏人は最低の治療しか受けられない。緩和ケアさえ受けられない。老人介護の問題もあまりのも大きな問題が残されている。どうすれば開けた世の中が広げられていけるのだろうか。赤穂浪士のように国会に討ち入りしたくなる。

2008年1月20日 (日)

日記

病院は『生命を守る』立場をとるが、末期癌者は『生命を育てる』生き方が求められる。そのことによって少しでも自分の人生を豊かにさせてくれるからである。死を前提にして生きることは、一日でも長く生きたいということもあるが、それよりも自分の人生を完成に向けて生きたいと願う心が強いものだ。誰でも末期癌と宣告されれば、絶望の淵に立たされるものだ。しかし、いつまでも絶望の淵にいるわけではない。諦めとか、自分の死を素直に受け入れながら、どう生きるかを追い求めるものだ。そして残されている自分の仕事を完成させたいという気持ちに変わっていく。そのことによって免疫力も高まり、現代医学の治療より、身体が丈夫になっていくこともある。三ヵ月とか半年の寿命ですねと医師から言われたひとも、数年生きていられることもある。医師は延命治療にこだわるが、末期癌者には、延命治療より、生きること育ててくれる人が身近にいることの方が必要とさせる。
最近末期癌である私のところに電話や詩誌が送られてくるのがめっきり減った。別に励ましの電話より、いつものような自然の会話が欲しいものだ。日常の豊かさが欲しい。日常の豊かさの中で、生命を育てる鍵があるからだ。詩語りライブに賭けている私には、ライブを応援してくれる人がいま私の生命を育ててくれる人でもある。そして一緒に詩誌『操車場』に参加していただける人が、ものを書かせてくれる勇気にも繋がってゆく。
死を前提にした生き方こそ、生命を育て生きる豊かさを味わうことが出来る。時の無意味さの時間の中に流されることがないからだ。もっともっと人の中で生き抜きたいものだ。人は独りでは生きては」いけない。いろんなところで『生命を育てる』とはどのようなことかを語ってゆきたい。末期癌になっていろんなものが少しずつ視え始めてきた。そして詩集の『生命の旅』の第三章(生命の歓び)の構成も視えてきた。生きてゆくことはなんと素晴らしいことなのだろうか。末期癌だからといって何も悲しむことはない。すねてが無の豊かさに支えられて生きているのだから。
明日詩語りライブがあります。何人あつまるか解らないが、魂の叫びを演じてみたいと思っています。

2008年1月19日 (土)

日記

病院より10時に帰宅。
手術を拒否したことによって、担当の医師は一度も病室に見られなかった。次回の入院の手続きも行われていない。少し心配である。
現代高齢化や癌の死亡率が高いにも係われず、そのケア対策が貧しい。ほとんどの病院でか死にたいするケアがなされていない。だから老人の殺害事件も頻繁に起こっている。事件がおこらなければ何も打つ手がないのが今の社会の現状である。それを打開するのは市民運動が必要である。市民の協力がなくてはこの死のケアの問題が高まっていかない。いまの日本では死は病院任せである。死がみえないところで営まれている。
手術を拒否しのいは、最後まで人間の心を持って生きていたからである。生きることは、最期の死を讃歌できる人生を送ることではなかろうか。人生を生きていることは、自分自身を素直に見つめて生きることでもある。そしていつも人明かりで人生と向き合っていたい。
病院の看護婦さんから21日のライブの予約を頂いた。この小さな励みが今生きている自分を支えてくれている。三味線を使わず、どれだけの声で語れるか試してみたいと思っている。癌は死への道ではなく、人生を再生させてくれる場でもある。だからどんなに辛くても生きていける場でありたい。病院や医師うあ看護婦さん達は、病院で患者と係わるのではなく、病院に以外でも緩和ケアを心かげる必要があるのではなかろうか。そのために社会人としてお互いに世の中の人明かりを目指して生きてゆきたいものだ。慰安大切なのは心のケアを出来る医師と看護婦が病院では必要である。それを育てる教育センターのようなものが地域的に作る必要があるように思われる。その中で医師や看護婦さんだけでhなく、患者の参加させてケアの問題を考えていくことが大切である。表面的に豊かな社会であるが一歩深みに入れば想像を絶した不幸な時代でもある。自分だけの幸せは、世の中を不幸にさせる最大の原因なのである。

人は豊かなる無から生まれ
豊かなる無の世界に帰ってゆく
その中で人は愛を学んでいける
それはこの宇宙で人間だけの特権でもある
仏陀の微笑みは無の微笑である

2008年1月18日 (金)

日記

今日は抗癌剤の治療とCTの検査がある。一日入院だ。
現代文学は、何処へ行こうとしているのだろうか。ますます小説も、詩もつまらなくなってきている。芥川賞にも直木賞にもまったく興味がない。青年時代に、ドフトエフスキーやロマン・ロウランやヘンリー・ミラーなど眠るのを忘れて読んだ。いま心が踊る小説を読んでいない。日本の現代文学は、何を書こうとしているのかさっぱり解らない。特に詩の世界は最悪だ。現代の精神的な病を癒すほどの文学が生まれない。誰もが心を癒す文学に出会いたいと願っている。それなのに書けないでいる。それは他者にあれこれ言うことではない。自分がいま詩と係わっていながらも、それに答えられないでいる自分が情けない。せめて詩語りで人に感動を与えられる世界を作ろうと努力している。頭と身体が一つになって人前で表現できる。そのことが今の時代では大切なことだと思う。活字だけの世界では、現代の複雑な人の悩みには答えきれないのが現状である。じかに人と人とが触れ合う場が失われている。人の生活にとって必要なのは、人の温みではなかろうか。詩の朗読はたった一人の詩人が裸形となって、聴き手の前に立つ。芝居のように数人で構成されてはいない。たった一人の詩人が自分の心を赤裸々に表現してゆく。それも芸術と高められた形で表現されるところが大切なことなのだ。それは単なる個人を越えた全人間的な言葉としてある。そこに詩人は人間として責任を取る。ただ書きっぱなしの詩では、詩として責任を取ることはあいまである思う。裸形で人前に自分をさらすことがいまどれだけ人に勇気を与えられることだろうか。詩語りこそ、いまもっとも人間的な行為の一つであるように思う。やっと声の力も戻ってきた。それは日々の精進があってこそ可能なことなのだ。癌は精神的にも肉体的にも大きいな負担を強いられている。それに負けない生き方を日々生み出してゆくことが、癌に負けないで生きることでもある。今の私は、人前で魂をさらけ出した語りを行いたと願っている。
今日の巡回朗読会は天童大人氏の朗唱である。会場は東京ユマニテ。ぜひ彼の声を聴いてもらいたいものだ。そして1月21日は私の詩語りがストライプハウスギャラリーである。声の力を多くの人たちに受けとめて頂きたいものだ。

2008年1月17日 (木)

日記

詩のテーマで絶望を自慢する世代がかつてあった。しかし、絶望からは何も生まれてはこない。いま末期癌である私は、できるだけこのようなテーマの文から離れていたい。絶望からでも美しい世界を描けるものである。それは魂の美しさである。それは絶望から一歩揚棄したこと意味する世界でもある。人はいつまでも絶望に止まっては生きていけないものだ。私が絶望を受け入れる時は、その絶望から人の為に生きたいという願いが生まれる時だ。絶望を通して人に優しくなれる。そういう意味では絶望を味わことも大切である。しかしその絶望を人に強制する考え方には反対したい。癌と共に生きるためには、嫌なことをしないことが大切である。明るく笑える人は、癌も治る可能性を秘めた人でもある。普通末期癌を宣告された時は、絶望の苦しみを味わうといわれるが、私には絶望を意識したことはない。いやこの末期癌には負けたくはないと思った。それはなかの芸能小劇場での絵手紙の会企画の仕事が入っていたこともある。癌にかかっている場合ではない。なんとしても詩語りを行うのだという強い気持ちが湧いていた。そして次に新潟県柏崎で鈴木良一さんがライブを設定してくれた。詩語りを通じて生きていたいという気持ちが末期癌といわれてもそれほど落ち込むことなく今まで生きてこられたのだと思う。本当の絶望には神が宿るのではなかろうか。だから絶望も生きてゆくうえに大きな価値をうむ要因になったりする。
久しぶりに、ミケランジュリのピアノを聴いた。美しい音だ。この世にこのような音があるのだろうかと思わせてくれる。ショパン・ラベルの曲を聴きながら心が洗われた。芸術家ならやはり人の魂を揺さぶる世界を目指して生きることが大切なのである。一篇の詩を書くにも人に対する優しさと、自分自身に対する厳しさがなけれならない。ライブまでもうすぐだ。今日は午前中に歯科に行く。明日は一日入院だ。

2008年1月16日 (水)

日記

書く行為には、楽しむ行為と、心を癒す行為がある。そのほかにもあるがこの二つは書く行為の大きな特徴といえる。誰の為に書くというより以前に、まず自分自身のために書く行為が先行している。その先に、誰かに読んでもらいたい、そして書く行為を通じて、人に何かを伝えたいという欲求が生まれてくる。詩誌に参加するということは、自己のために書く行為を越えて、人に読んでもらいたいという連帯意識が生まれてくるものだ。だからこそ、合評会などが行われる。厳しい批判があって、そこから次の段階が生まれる。そのような経験を経て詩集の刊行が生まれる。しかし、私の場合、他の詩誌に参加したこともない。「漉林」「操車場」は合評会など一度も行ったことがない。それは地域的な詩誌ではないからだ。ある意味での投稿詩方の詩誌である。だからこそ、いい加減な作品は掲載しないことにしている。詩誌に載せるということは、作品が一人歩きを始める場所でもある。そこにはもう作家の自己弁護など介入しない。作品の持つ生命だけが、人の心を掴んでいく世界である。だからこそ詩誌への発表はわくわくする。操車場は月刊詩誌である。毎月わくわくできる。癌の治療にとっても精神的に良い。楽しく生きるそのことが癌の免疫を高めるからである。そして仲間のいい作品にであったときの歓びもある。心をつねに活性化できる。
それと同時に私は詩語りに取り組んで生きている。声を出すことは身体にとても良い。まず複式呼吸で声を出す。人に聴いてもらいたいという歓びの気持ちが生まれる。人とひとが直接に結び合える場所である。癌患者は人との触れ合いが大切である。部屋に閉じこもっているより、時たま外に出て人との触れ合いを持つことも大切な治療の一つである。今のところ詩語りの現場が私にとって唯一の人との触れ合いの場である。
来週の21日にはストライプハウスギャラリーで詩語りを行う。ストライプハウスギャラリの詩語りはこれで最後になるかもしれない。というのは三月からこの場では出来なくなりそうなのだ。塚原さんお身体の調子のことを考えると無理ができないからである。この場は詩の朗読では伝説を生んできた場所でもある。最初に行ったのが吉原幸子さんである。それ以後いろんな詩人たちが行ってきた。『生命の旅』の出版記念ライブを行う。この時は楽器を使わず、肉声のみで行う。いまから楽しみにしている。楽しく生きることが今の私にとって一番大切なことなのである。一人でも多くのお客が来てくれればなおさら心が楽しくなる。癌を楽しみに変えていく行き方をもとめて行きたい。そのことによって癌患者が一人でも生きる意味をつかめてくれれば幸いである。

入場料  予約 大人2,500円 学生1,500円(学生証呈示)

       当日 大人2,800円 学生1,800円 (学生証呈示)

*予約は直接、ギャラリーか田川紀久雄へお電話かFaxでお申し込み下さい。

ストライプハウスギャラリー(六本木) 〒106-0032東京都港区六本木5-10-33
Tel 03-3405-8108 Fax 03-3403-6354

田川紀久雄 〒210-0852 川崎区鋼管通3-7-8 2F
℡044-366-4658

2008年1月15日 (火)

日記

『和歌山電鉄貴志川線の無人駅「貴志(きし)駅」(和歌山県紀の川市)で駅長を務めて人気の三毛猫、たまが5日、「スーパー駅長」に昇格し、辞令が交付された。』という記事が新聞に載っていた。以前私達は浜川崎の猫に餌をやっていた。猫の名を駅長さん(ねね)と呼んでいた。が猫小屋は取り壊されてしまい最期は行方不明になってしまった。猫がいることで乗客の数も増したとある。JRは動物にたいして冷たい。外国のホテルにも野良猫がホテルの看板になったということもある。
昨日山本萠さんから『生き方革命』という医療関係の本を贈っていただいた。癌は自分で治すものとある。手術を拒否した今の私はまさに自分の力で癌を克服していかねばならない状態にいる。このことは、思っていた以上に精神的に大きな負担が圧し掛かる。本当に癌は治るのだろうかという気持ちが身体のどこかにある。自分でいくら癌は治るといいきかせても、どこかで空回りしてしまうことがある。人の心は、思っている以上に弱いものである。この弱い心を素直に受け入れることも大切なことではなかろうか。また、生活が大変なら生活保護をとあるが、15万円以上預金をもっていたために生活保護を受けることを拒絶された。なかなか生活保護を役所は受け入れてはくれない。そしてもし生活保護を受け入れてもらえても三万を越える買い物は出来ない。私はいま三部作に詩集を作り上げたいと願っている。生活保護をうけると詩集や詩語りが出来なくなる。生活は困っても、癌と闘う以上、生きる目標を持たねば自立した生き方ができなくなる。強い生きがいを持つことが癌を直すには大切なことである。それを奪われては生きてはいけなくなる。今の私は詩語りライブにお客が来てくれることを祈るだけだ。ある程度のお客が来てくれれば治療費も払える。しかし、そう甘いものではない。
詩と関わっていられることで、私はこの世に生かされている。詩を通して生きている意味を問い続けられる。詩は私にとって癌を治す最大の薬なのだ。『生き方革命』はとてもためになる本である。山本萠さんに感謝。詩誌『雲の戸』も一緒に送られてきた。

2008年1月14日 (月)

日記

本屋に行っても図書館に行っても、『現代詩手帖』の本が置いていない。詩は庶民にとって無用な世界なのだろうか。今の詩人達は、あまりにも庶民感覚を忘れてはいないだろうか。人々の生活の中に詩が生きていない。現代詩で口ずさんで読める詩が何篇あるのだろうか。文学(詩)は、人に楽しみと生きる勇気を与えてくれるものであった。だから私も詩を書き始めたのだろう。今年はもう『詩学』という詩誌もなくなっている。一度も詩学とは係わりを持たなかったが、かつて詩学と係わっていた大西さんにはいろいろとお世話になった。いま詩の世界から少しずつ離れてみると、いろんなものが見えてくる。一番感じるには、やはり庶民感覚を失っていることだ。特に、『現代詩手帖』がそうである。図書館から、『現代詩手帖』が消えている理由もうなずける。
現在天童大人氏が企画している巡回朗読会から、巷の世界で活躍できる詩人が何人生まれてくるのか楽しみだ。天童大人氏の朗唱が18日にある。聴きたいと思っていたら、当日は一日入院日である。いつか彼の即興詩の朗唱を聴きたいものだ。そしてDVDに残しておきたいものだ。
詩は高尚なものではない。あくまで人の心に届くものであらなければならない。優れた詩ほど、普通の人の心に響いていくものだ。詩壇で活躍している詩人たちも本当はなんら巷での活躍はしていない。ある意味では存在していないと同じようなものだ。
操車場は詩人たちより、詩に係わっていない人たちに評判が良い。詩人たちから励ましの手紙はないが、普通の人たちから励ましの言葉を頂く。いま医療費で生活が大変なのでそれほど詩誌を送っていない。送っている部数は約80冊程度だ。できるだけ詩人たちには購読してもらえる詩誌作りをしてゆきたい。そして私の詩集も買っていただきたいものだ。『見果てぬ夢』『生命の旅』各2200円です。

2008年1月13日 (日)

日記

現代人は、人と人との繋がりが少なくなってきている。人間がこの地球に存在して以来、救いがたい孤独そのものを感じるようになった。不安が募って自律神経失調になったりする人が多い。人に言えない苦しい病である。なぜ人は生きなければならないのだろう。何処にも助けを求めても答えてはくれない。心の病は、医療だけでは完治しない。周囲のあたたかい思いやりが必要なのである。お前だけが苦しんでいるのではない、ということはある意味で残酷でもある。何かに打ち込んで生きろといっても、その言葉は虚しい。私達の近くに多くの人たちが苦しんで生きているのだ。
詩・短歌・俳句の世界にその苦しみを癒すために書いている人たちがいる。同じ苦しみの人がいることが、どんなに心の救いになることか。詩歌は、そういう意味で心の唄なのだ。そのことを忘れて詩は、暗喩だとか言って言葉遊びにふけっているのが現代詩であるとしたら、果たして詩とは何なのかをもう一度問い返す必要がある。尼崎安四の詩を読んだことのある詩人はまだ少ない。私は彼の詩から多くの救いの言葉(詩)を貰った。詩は自分のために書いていることが多い。苦しみを真に受け止めて詩にしようと生きている。真の詩人とはそのような人のことを言うのだと思う。その先にその詩が、人明かりに輝いてゆけるのだ。ベートーヴェンの第九交響曲のように苦悩から歓喜の世界を掴んでいけるように。辛い苦悩があるから人は本当に生きられるのではなかろうか。今の私も、末期癌になって生きていることはとても辛い。でも一瞬一瞬を大切に生きることによって、生きる幸せを感じてる。なんとなく今まで聴いていた音楽を真剣になって聴くようになった。一つ一つの音の意味を求めて聴いていたい。昨夜はバッハの無伴奏チェロ曲を聴いた。河合隼雄さんが言うように生きていることは凄いことなのだ。そのことを噛みしめながら生きていたい。

2008年1月12日 (土)

日記

人明かりはどうしたらできるのだろうか。それはもっとも身近な人を大切にすることから始まるのだと思う。空論ばかり夢見てもいたしかたがないものだ。そして、自分の仕事を懸命になって成長させることだと思う。私の場合だと、詩語りで人に感銘をあたえられる芸まで成長させることだろう。何人来たから成功したというのではなく、一人の人の心に届く語りを行うことだ。詩集の出版だって立派な本を作る前に、本当に人に感動を与えられる作品かどうかを考えるべきである。自費出版の欠点はお金をだせば簡単に出来ることだ。大きな出版社も、本を出しても売れない時代になっている。草思社も20億円の赤字だという。良い本を沢山作ってきた出版社であっても現実は厳しいものだ。電車に乗れば猫も杓子も携帯電話でメールに取り付かれている姿である。あれでは本を読む暇などもてないだろう。日本人の心はますます貧しくなってゆく。
詩誌や詩集をだしても、何の反応もないと寂しいものだ。だからといって読んでくれていないものではない。私もほとんど返事を出しないが、送られてきたものには一応眼を通す。
作品とは一人歩きすることによって成長してゆくものだ。良い作品は人の心を豊かにしてくれる。先日送られてきた詩誌『不羈』33号の中で、及川博詩集「土と風の立つ」についての批評を植田理佳が書いていたが、感動して読んだ。及川の詩集を読んでみたくなった。詩誌の役割は、同人の詩を丁寧に批評してもらえる。仲間の作品を丁寧に読むことも、人明かりなのだ。読んだことを作者に伝えなくても・・・。作品とはそういうものなのだ。
受贈詩集『一日だけのマーガレット』中田紀子詩集。

2008年1月11日 (金)

日記

昨日NHKテレビで『村歌舞伎を救え』のドラマを観た。歌舞伎役者の声でその場の雰囲気が変わってしまう。型と声の力は凄いものだ。日本人の声で、聞きほれるのは古典芸能の声である。義太夫・能・長唄・歌舞伎みんな腹から声を出している。つまり地声なのだ。詩の朗読も日本語を美しく聞かせるのは、この古典芸能の声を勉強しなければならない。詩人たちは素のままの声がいいといっているが、古典芸能をしらない詩人達が言っているだけだ。声を鍛えないで朗読を行うなんておこがましい。詩の語りには、やはり型と声が大切なのである。ただ詩を読めば朗読だなんていうのでは駄目である。詩の朗読も私にとっては芸能であると思っている。
川崎にも今年の春には東扇島に人口海浜ができる。出来たら見に行ってみたいものだ。人の心を豊かにするには自然の回復が必要である。人の心が簡単に切れてしまうのは、消費文化に汚染されているからである。テレビでもほとんどくだらない番組が多い。その中で心が慰められる番組を見ることが生きていてほっとする時間でもある。でも私はほとんどテレビを観ることがない。時間に縛られてしまうのが嫌いである。詩の朗読をするのも、いつも心の豊かさを求めていないと碌な朗読しかできなくなる。人間として精進してゆくことが一番の基本である。

2008年1月10日 (木)

日記

昨夜は、癌に追いかけられている夢をみた。寝たのかわからない状態だ。気力が衰えると悪い方向を意識してしまう。やはり癌と共に生きることはしんどいことだ。のんびり生きようと思ってこのところ音楽をたくさん聴くようにしている。昨日はブラームスの交響曲1番・2番を聴いた。
かつてクラシックの喫茶店を開いていたことがある。今部屋の中にあるのは安いCD付のカセットだ。音がそれほど良くない。新聞や雑誌で紹介している米・ボーズ性のウェーブミュージックシステム(74970円)が欲しいと思っている。どのような音がするのかわわからないが、モーツァルトの弦楽四重奏を聴いてみたいものだ。前々から欲しいと思っていたが、とても買える状況ではない。いい音で音楽を聴きたいものだ。
癌を治すには、ナチュラルキラー細胞とマクロファージといった免疫細胞を増やすことだ。そのためにも運動や精神的な安心感が大切なのである。毎日毎日癌に負けまいとして生きていることは苦しいものだ。散歩や音楽を聴くことによって辛い心を乗り越えていかねばならない。できれば詩語りの仕事が入ることが最大の良薬である。多くの末期癌者がいる。その人たちの為にも前向きで生きていかねばならない。本当の人明かりを目指して生きてゆきたい。

2008年1月 9日 (水)

日記

朝日新聞に市川団十郎のがんの記事が8日9日に載っている。彼も唇があれ、口内炎もできたと書かれている。癌である以上、口内炎は我慢しなければならないのだろう。そしてあせらずにのんびりと生きることが大切なのだ。
昨夜夢の中で、自分の語りの声が聴こえてきた。そして活字から自由になって声が飛んでゆく。活字は、語られることを待っているのだ。不思議な感覚に誘われた。生活は厳しいが、やはり私は詩語りの世界を追求していく以外にない。そのために癌になったのだ。少しでも温みのある声を出してゆきたいものだ。癌によって深く生を見つめることが出来る。それは語りにとって必要な経験なのだ。この苦しい経験を人の為に役だ出せなくてはならない。午前中は公園で体力づくりと語りの稽古を行っている。いま『生命の旅』を繰り返し稽古を続けている。1月21日のライブに向けて一回でも多くの稽古を積み上げていくしかない。お客様が来てくれるかどうかわからないが、一人のお客の為にも納得のいく語りを披露したいものだ。お客様に、田川さんの語りが聴けて良かったと言わせたいものだ。多くの末期癌者のためにも、前向きになって生きることが人明かりに繋がっていく。生活もかかっているので一人でも多くのお客が来ることを期待したい。

2008年1月 8日 (火)

日記

天童大人氏から中古のファクス付の電話を頂いた。まだ使っていないので上手く機能するのか少し不安である。とにかく有難い。
今の私にとって医療費に支払いや、保険料の支払いがあまりにも重くのしかかっている。健康保険料が払えない人たちも沢山いる。国の医療対策は貧困である。貧しいものに多くの負担を背負わせている。年金のない私には詩語りの仕事でしかお金が入ってこない。今月もあと二回抗癌剤の治療がある。手持ちのお金も底が見え始めている。昨夜はいろんな事を考えて眠れなかった。操車場も購読者以外に送れなくなるかもしれない。そのためにも質を高めた詩誌つくりをしてゆきたい。
自費出版の会社が20億の借金で倒産になった。その会社に上手くはめられて作った大学の教授たちがいる。初めからそう簡単に本屋の棚に並ぶなどと夢を見るのが不思議だ。詩集などは、自分から努力して売らない以上誰もが買ってはくれない世界である。出来るだけ安く作ることが次の詩集を作る励みになる。しかし、私の所に送られてくる詩集は数百万円もかかった本が多い。詩人はお金持ちが多いのだろうか。詩集はあくまで装丁より中身が大切である。現代詩では、本当に読んで心が豊かになる詩が少ない。人明かりになれる詩を書いてゆきたいものだが、そう簡単には書けないものだ。書く以前に、人明かりになれる生き方をしなくてはならないからだ。相手を思いやる心が大切なのだ。これからますます格差が広がってゆくだろう。弱い人たちが人間として生きられる世の中を作ってゆきたいものだ。

2008年1月 7日 (月)

日記

テレビで観た話。聴導犬のことはまったく知らなかった。日本に14頭しかいない。この犬は、捨てられた犬たちである。保健所で処分される小犬から探し出す。人間の身勝手で捨てられる犬が多い。長野の伊那に聴導犬を訓練する施設がある。またその聴導犬は無料で提供されているという。14頭目の犬はシーズ犬である。わたしも足立でシーズを飼っていた。とても人懐こい犬である。その犬が聴導犬になるとは驚いた。動物は、人の心を慰めてくれる。生まれたものは最期まで生きる権利がある。それを捨てられたという理由だけで処分する。優しいい心で最期まで飼った動物と付き合った欲しいものだ。
いま私は野良猫を写真に撮るのが楽しみにしている。彼らはすぐに逃げてなかなかうまく撮らしてくれない。そこがまた楽しいのだ。
横浜の中華街に漢方を買いに行く。免疫力を高めていけば、抗癌剤の治療にも有効な効果をもたらすのではと思うからだ。いま漢方の力によってこの癌を一日も早く直したいと願っている。
操車場を発送する。次号の〆切りは1
月31日までです。

2008年1月 6日 (日)

日記

宮澤賢治の『青森挽歌』の中にでてくるヘッケル博士は、生態学の名付け親である。へッケルは、小説家のロレンスにも影響を与えた。ヘッケル博士は、死後の世界も霊魂は存在しないと説いていた。そのことに反発して宮沢賢治は、愛する妹のとし子の死後の世界を追って旅をする詩を書いた。青森挽歌は宮沢賢治の最高の詩である。私と坂井のぶこでこの「青森挽歌+銀河鉄道の夜」を何度も語ってきた。この前の柏崎ライブでも語った。
(見たい方はDVDがあります。定価2200円で発売しています。)
詩の朗読は、芝居ではない。詩の内面を語ることである。そこがほんとうに難しいところである。役者の詩の朗読では、詩の朗読というより説明的な朗読になりがちである。聴き手には解りやすいのかもしれないが、本当の意味での詩の朗読とは違う。詩の朗読は、もっと厳しい世界でもある。今は生きている人生をまっとうすることが私の仕事だ。精一杯生きることが死後との世界と関わってくるのだと思う。
今日操車場8号の製本を行う。

2008年1月 5日 (土)

日記

九時に退院ができる。皮膚科に口内炎をみてもらったが、塗り薬だけを貰った。口内炎が出来るのは、抗癌剤が効いているせいだという。副作用のある薬が良い薬というのか。変な話を聴いて部屋に戻るしかなかった。
毎日が不安の中で生きているのは苦しいものだ。その中でどう日々を生きるかを考える。生きる勇気と知恵を身に付けなければ長い闘いはできない。一様三ヵ月程の目処をつけて生きるしかない。操車場の出版と詩語りライブを行うこと。そしてその間に小さな旅や自然環境について学ぶことである。
病院入院患者を見ていると、ほとんどが何もしない生き方をしている。寝るかテレビをみて過ごすしかないようだ。ますます病気があれでは悪化するだけだろう。
昨日はレントゲン・心電図を撮らないので二万五千円で入院費が済んだ。次の入院時はCTを撮るとのことだ。予約を入れる。なぜ急遽にCTを撮る必要があるのか説明がない。説明がないのはやはり不安を駆り立てるだけだ。末期癌患者の場合ささやかなアドバイスが大切なのである。いまの医師にはそのことが解らないようだ。
1月21日のライブに向けて精進して行こう。孤独との闘いの中で詩語りが作られてゆくものだ。愛と勇気を与えられる詩語りを生み出したい。

2008年1月 4日 (金)

日記

今日一日入院である。正月は口内炎で悩んだ。舌に腫れ物が出来て食事も思うように採れなかった。癌を殺す細胞を増やさなければ、癌に負けてしまう。どうすれば癌が消えていくのだろう。抗癌剤では癌は治らない。それでも今は抗癌剤の治療をするしかない。
末期癌患者の場合、最期まで人間全体を見てもらわないと生きていて辛いものである。緩和ケアの場合抗癌剤の治療には保険が適用されないらしい。医療とは、身体の一部を治療するのではなく人間そのものケアする仕組みが必要である。しかし、それができない以上、それを補うものが必要だ。私の詩語りはそれを補う役割になりたい。人への優しさ、思いやりが詩人の仕事ではなかろうか。詩人達は、暗喩がどうとか、社会性がどうとかを観念的に思いこんでいるだけだ。人と人との関わりを拒絶している詩人達が多い。詩とはまず行動を起こす原動力の源にならなければならない。詩は闘いなのだ。そのことを実際に証明したのは、宮澤賢治だ。デクノボウになって生き抜くことだ。詩人達は組織の中で安心する
のではなく、あくまでも一人の人間として闘い続けることだ。それは人明かりを目指して生きること以外には、本当の詩人はなれない。今年から巡回朗読会を積極的に行ってゆきたい。客の集まりが悪いが、それでもその中から自己発見の場を作るしかない。詩人たちは、遅く始まるから行けないとか、料金が高いからいけないとか、言い訳ばかりいう人間が多すぎる。癌を抑える細胞を増やすには、私は詩語りを行いたいという強い願望が必要なのだ。私を必要とする人たちに会ってゆきたい。生きることは人への思いやりが生きる勇気を与えてくれる。手の痺れが出てきているが、抗癌剤に負けない体力を作ってゆきたい。そして一回でも多くの詩語りの場を持ちたいものだ。

2008年1月 3日 (木)

日記

河をみても河原に石がなくなった。多摩川でも上流に行かなければ、小石を拾うことができない。何故かというと、ダムで堰き止められて小石が下流に流れなくなった為である。ダムは生態系を破壊する。明治初頭にオランダから河川の港湾を再生すうために招かれた人の中にヨハニス・デ・レイケがいた。粗朶沈床で河原を改修すう技術を行った。コンクリートを使わなくても河原が安全に改修される。大企業が儲かるためにやたらにダムを作りすぎてしまった。ほとんど日本の河川にダムのない河がない。自然の恵みは計り知れない恩恵を与える。CO2の排出権取引が株と同じように取引が行われる。何か嘆かわしく感じられる。自然は金では買えないものなのに。
粗朶沈床で行った対岸には魚が住みつき、釣り人でにぎわうという。九頭竜河口は現在もその役割は果たされている。奥多摩の河でダムの為に水が濁っている。白丸ダムを見に行った時も河の水はねずみ色をしていた。山は杉林だらけ。多摩川の河原で石を拾うとしたら相当河を登らなくてはならない。正月の空は澄んで綺麗であった。星も美しく見られた。身近な自然を観察するのも大切なことである。自然を愛してゆけば、もっと人間の心も豊かになれる。

2008年1月 2日 (水)

日記

人間の都合で他の生き物が減っている。浜川崎周辺では、猫の姿がめっきり少なくなった。保健所の職員が捕まえるのだろうか。捕まればほとんどが処分されてしまう。猫や犬たちと仲良く共存出来ないものだろうか。「自然の権利」は、今のところ日本では認められていない。熊などは昨年4千頭も殺されたという。月の輪熊が、日本からいなくなってしまうだろう。森を守り豊かな自然を取り戻せば、熊も里まで餌を求めて山から降りてくることもない。いま人間同士の優しさも失われつつある。ちょっと注意しただけで切れる人が多い。携帯電話やインターネットなどの普及するようになったお陰で、人と人とが向き合った話し合う機会が少なくなったせいもある。地球全員が家族という意識をどうしたら持てるのだろう。そしてすべての生き物が生きる権利があるということを認識するにはどうしたら出来のだろう。頭で考えている以上、本当の思いやりは生まれてこない。
病院でもそうであるが、患者は医者とお互いに助け合って生きることが大切である。医師は患者を診てやるという意識では本当の医療とはいえない。
昨年の暮れに坂井のぶこさんの親達と一緒に食事を取ることができた。それほど話合うことはないが、共に同じテーブルについてなんでもない話も大切なことであった。今年は一緒に温泉でも行けたらいいなと思っている。ゆったりと生きる時間がいかに大切であるかということだ。

2008年1月 1日 (火)

日記

鎌田實著『あきらめない』(集英社)を読む。その中で「ぼくらの病コンは三つのつながりを大切にして始まった。人と人のつながり、人と自然のいつながり、体と心のつながりを音楽が豊かに結んでくれるような気がすぃた。」とある。この音楽を「詩語り」に置き換えて今年は生きてゆきたい。自然を取り戻す。これが今年のテーマではなかろうか。地球環境をまもらなければ人間は死滅するしかない。
私も自分なりに末期癌と闘って生きている姿を公開することが、同じ病で苦しんでいる人の人明かりになれれば幸いだと思う。手術を拒否してどこまで人間として生きていけるのか。私も自分の癌を真剣に話し合える医師が欲しい。本当に一緒になって、癌と向き合って共に生きてゆこうという医師がほしいものだ。そして詩語りを応援してくる友も欲しい。四月までには次の詩集『生命の旅・第二章生命の尊厳』を上梓したい。自分の生きている姿が人明かりになれれば生きている意味がある。そのために前向きで今年も生きたい。人の心はとても弱いものだ。だからこそ温みのある仕事をしてゆきたい。詩語りをもっともっと深みのある芸にしてゆくことだ。ひたすら精進があるのみ。世界の思想は愛を求めてゆくことだ。平和を求める思想こそがいまの世界状況を代える力になる。
今年もよろしくお願い致します。

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