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2007年12月31日 (月)

日記

ツタヤで「海に飛ぶ夢」と「しゃべれどもしゃべれども」のDVDを借りて観る。『海に飛ぶ夢』はスペイン映画。尊厳死がテーマである。死を受け入れる時は、あくまで末期的疾患の場合延命治療は意味がない。その場合のみ尊厳死が許されると思う。『しゃべれどもしゃべれども』は落語家の話である。テレビの「ちりとてちん」を毎日観ていたので、借りて観てしまった。
古本屋で柳田邦男著『「死の医学」への日記』を100円で買う。
操車場の原稿が全部集まらないのが残念である。今年も今日でお終い。いい年であったのか、悪い年であったのか、どちらともいえない年であったような気がする。まあ今のところ何とか生き延びてこられたことが最大の幸せなのだろう。一日一日を大切にして生きていくことだ。私には今日とか明日とかという考えはもうない。一日がつねに永遠である生き方をしたい。

2007年12月30日 (日)

日記

日本フィギュア2007「メダリスト・オアン・アイス」をテレビ観戦する。苦難を乗り越えた人に魅力を感じる。大田由紀奈・鈴木明子は魅力を感じる。大田さんのスケートには優雅さとフィギュアを越えた感動が伝わってくる。その点浅田真央のスケートは、美しさがあるが、内面性を感じさせてくれない。10代・20代であれだけ表現ができるのは驚きだ。それに比べて詩の朗読では、心から感じさせてくれるものが少ない。言葉の意味を超えた人間存在性のスケールの大きさがないのだ。私の語りも来年はこの人間性の大きさを求めて深めた語りを行いたいものだ。人は多くの悲しみを乗り越えた来た人がひたむきな努力の上に築いた芸は魅力が沢山ある。それは人に対する愛から生まれてくるものだと思う。今の私も多くの人たちに助けられて生きている。詩語りのその恩返しをしたい。それには声のもつ温みを生み出していかなければならない。末期癌にかかったことによって、何かが生まれてくるのだろう。そう意味ではやはり末期癌に感謝すべきなのだろう。死を見据えた世界でしか語れないものがあるからだろうか。来年は精一杯生きたいものだ。皆様の暖かい応援をお願いしたします。

2007年12月29日 (土)

日記

今年の入院が終わる。短いようで長かった気がする。
死とは、なんであろうか。それは生にたいする鏡ではなかろうか。とくに末期の患者にとっては真剣に考えなければならない問題だ。死ぬ瞬間が誰にもわからない。その先のことなど見当もつかない。ブット氏の突然の氏はほんとうに辛いものがある。現にいまやりたいことの為に闘って生きている人に対しては特に強く共感を呼ぶ。人はどこかで死を受けざるを得ない。それは諦めではない。それも一つの生の選択なのだということだ。いまのところ私は死を少しも怖れてはいない。それより生きることにまだまだ生命を賭けて生きているからかもしれない。今年は末期癌の宣告を受けたことによって、それなりの充実した日々を送れた。思いもよらない二冊の詩集まで上梓することができた。そしてそれを人前で語ることが出来た。不幸な状況のなかでも最大の幸せの中で生きたともいえる。来年はどうなっていくのだろう。風に吹かれるままに生きるのかもしれない。夢を捨てないで日々語りに精進してゆく人生でありたい。いろんな人たちのお世話になった。心より感謝いたします。操車場に参加してくれている人たちにも感謝。

2007年12月28日 (金)

日記

一日入院日である。抗癌剤の治療では癌は完全に治らないが、癌の抑制力はある。私の周囲の人たちは、この抗癌剤で苦しんでいる人が多い。抗癌剤の治療費も馬鹿にならない。一回につき約三万円もかかる。今のところ私は西洋医学を拒否することは出来ない。抗癌剤の副作用はあるにしても、癌の進行は抑えられている。それゆえに詩語りに打ち込んで生きていられる。
人は大きな目標があればそれに向かって強く生きていられる。昨日のアイススケートの試合を見ていて痛感する。安藤美姫は前回三回転のジャンプを何度も失敗した。しかし、この大会を目指して懸命に努力してきた。彼女のスケートははらはらどきどきしながら見てしまう。応援したくなる。
詩語りには大きな大会もない。ただ自己との闘いしかない。人に夢を与えたいと思い努力するしかない。巡回朗読会には、それほど人が来てくれるものではない。でも何も目標がないより、やはり公の場でできることは生きる励みにもなる。一つ一つ大切にして生きていくことだと思う。舌に腫れ物が出来て、声をあげるのも辛いが、毎日精進していく中で、温みのある詩語りが生まれてくるのだろう。詩語りが出来る場所があったら紹介してください。自然や、癌についいてミニ講演をしながら詩語りがしたいと願っています。投げ銭でもできれば有難いものです。

田川紀久雄詩集『見果てぬ旅』『生命の旅(第一章)』好評発売中。
頒価 2200円。
柏崎ライブDVD くずれ三味線苦土節・魂の叫び
宮澤賢治「青森挽歌+銀河鉄道の夜」 田川紀久雄・坂井のぶこ
頒価2200円

2007年12月27日 (木)

日記

『詩と思想』1・2月号が送られてくる。操車場のメンバー三人(坂井信夫・長谷川忍・田川紀久雄)が2007ベストコレクションに選ばれている。2007年現代日本の詩年総括のサブタイトルがある。その中には、一行も巡回朗読会について触れていない。150回を越えて行っているにもかかわず。ここの編集者の頭は活字だけが詩の世界と思っているのだろうか。「詩と思想」で『肉声』を特集していた。白石かずこ・天童大人・小川英晴・田川紀久雄・長谷川忍らが対談していた。私は2007年の詩の動きは何といってもマイクも使わず自作詩を約一時間に亘って一人で朗読を行う運動を続けてきた巡回朗読会ではなかろうか。肉声を鍛えることに天童大人は詩の新たなる境地を開いた。外国に行っても恥ずかしくない朗読ができる詩人の育成に努めてきた。お客の心を掴むことのできる詩人が少しずつ増えてきている。天童大人は2008年も巡回朗読会を続けてゆく。いつの日にはその中の詩人達が全国各地を廻って朗読をする日が来るかも知れない。キャラバンを組んで日本いや世界を廻ってみたいものだ。この巡回朗読会で五回以上参加した詩人もいる。場数を踏むことによって朗読の面白さがわかってくる。朗読が人明かりになっていく日もまじかかも知れない。朗読を馬鹿にしている詩人達の詩は、所詮本当の詩が解らない人たちなのだ。活字を捨てて街にでることだ。

2007年12月26日 (水)

日記

現代医学の欠点は、医師は専門職的で患者へのケアが足りないところだ。人間としての温みが足りない。大学では教養だけを詰め込んで、患者へのヘアの仕方をほとんど学ばないで卒業してしまう。医師は、患者と共に病気を治すという気持ちがたちない。直してあげるのだという気持ちが強すぎるように思われる。看護婦さんたちが、患者との仲を取り持っているのが現状である。末期癌者は、最期まで一人の人間として扱われたいと願っている。
最近メールで、癌に対してのアドバイスが入るようになった。生きる勇気を与えてくれる。見知らぬ人からの励ましは嬉しいものだ。手術を拒否した私は、自分の考えを真剣に聞いてくれる人がやはり欲しいものだ。自分でもこのままでよいのかどうか解らない。医師は自分の選択に対してアドバイスがない。一緒に癌を治してくれるという実感が乏しい。医師は、医師であるまえにやはり一人の人間であることを忘れてはならない。心の治療が末期癌者には必要なのである。ちょっとした励ましの言葉が、生きる勇気を与えてくれる。大切なのは心の優しさではなかろうか。気力を高めて人に生きる勇気を与えられる人になりたいものだ。

2007年12月25日 (火)

日記

津坂治男さんから『みえ現代詩』74号が送られてくる。〈詩誌管見〉というコーナーがある。その中で、横井新八さんが亡くなられたことが書かれてある。以前「幻市」という詩誌のときにお会いしたことがある。そして「漉林」にも作品を書いて頂いたこともある。個人誌「青樹」も発刊されていた。とても優れた詩人であった。骨のある詩人が消えてゆくのも寂しいものだ。「漉林」が終刊してから、詩人との付き合いも少なくなった。今の商業詩誌にも興味がわかない。詩を書いていてもなにか虚しさを感じる。何のために詩を書き、誰のために詩を語ってゆくのか、という問いを持ち続けていかないと先が見えなくなってしまう。
詩人との付き合いより、自然を取り戻す運動をしている人たちと交流をしたいと願っている。身体が思うように動かないので今のところ足踏み状態だ。来年は、もっと人間の生命や自然を守ることを考えて詩を書いてゆきたい。

2007年12月24日 (月)

日記

参院議員の山本議員が胸腺がんのため亡くなった。58歳。肺と肝臓に転移していた。薬害肝炎一律救済を今回国会で成立の予定。国民の声で全員救済の道を勝ち取った。癌で手術したあとで抗癌剤の治療を行うと副作用がでてくる。それは体力的な問題もある。
癌の手術を拒否して抗癌剤の治療を続けることは正解なのだろうか。西洋医学と東洋医学を混ぜながら癌の場合治療をするのが最適ではなかろうか。確かに東洋医学では、すぐに結果が現れないが、時間の経過の中でいくらかでも癌がよくなってくることも確かだ。末期癌である私は、そこまで身体が持っていられるのかが不安である。
詩誌『叢生』153号が送られてくる。その中で島田陽子さんの詩に大腸内視鏡検査の「ひとより長い」というのがあった。癌と闘ってきた詩人の詩には、普通の詩人達の詩より惹かれるものがある。
古本屋で『死ぬ瞬間』を見つけて買う。読みたいと思っていた本である。それから時実利彦著『生命の尊厳を求めて』(みすず書房)を買う。

2007年12月23日 (日)

日記

中村不二夫さんから詩集『コラール』が届いた。とてもいい詩集である。Ⅰ章は身近な人の死を描き、Ⅲ章の終わりの方に「十字架」とい作品持ってくる構成はさすがである。
最近ほとんど詩集が贈られてこない。でも送られてくる詩集はどれもいい詩集だ。
私もいろんな人に送りたいのだが、送れない事情があるのだ。それは癌の医療費に困っている。だから出来るだけ購入してもらいたいと願っている。どうしても『未来への旅』の三部作を完成したい。詩集を売られば、次の詩集が発刊できない。漢方を買ったり医療費の支出に十万ほどかかっている。年金もない私にはどう支払っていくのか。詩語りや、詩集を売らなければ、治療も続けられなくなる。生活苦と末期癌との闘いの中で人明かりの道を模索している。苦難は、人の生き方を強くしてくれる。どこまで持ちこたえられるかわからないが・・・。
泉谷栄さんより、心温まる食料が送られてきた。昨日の入院代も川崎詩人会のUさんやHさんからのカンパ代を使わしていただいた。今月もう一回入院がある。来年の巡回朗読会(1月21日)にはまだ私の語りを聴いたことのない人に聴きに来てもらいたいものだ。一人で多くの方が来ていただければ医療費の支払いもいくらか楽になる。

2007年12月22日 (土)

日記

病院から10時頃に帰る。公園で声をあげてみたが、入院のためにか、今いち気力が盛り上がらなかった。人前では、それなりの気力で行わなければならないのに、ちょっとした原因で語りの調子に変化がでてしまっては困る。まだまだ精進がたりないのだろう。私の癌の表情がどのようになってゆくのか不安でならない。
DVDで記録しておいた『稲垣勉の軌跡』を観る。かれの言うようにナンバーワンではなくオンリーワンを目指して努力することだ。映像の中で大学を出ていないのでカセットの販売を断られる。私達もカセットを聴いてもらいライブの依頼をいたことがいくどかある。(喫茶店や小学校関係)このような激しい声では、行うことが出来ませんと断られたことがある。オンリーワンで生きることがそれなりの学歴や経歴がなければ、なかなか世の中は認めてはくれない。詩人としては無名だから詩人関係の大きなイベントには呼ばれたりはしない。詩人は、現代詩手帖系が、いまでも物言う世界が通る。特に報道関係はそうである。報道人は、自ら優れた詩人達を自分の手で見出そうとはしない。手帖関係の資料ですましている。
自然も、人の手に汚されていない場所が必要である。経済が優先される国では、本当の自然がどんどん消えてゆく。人の手に汚されていない世界こそ一番美しい場所なのだ。
私達の詩語りも世の中に媚びることなく、オンリーワンで行ってゆきたい。

2007年12月21日 (金)

日記

今日からまた抗癌剤治療の為に一日入院である。どこまで効果があるのかわからないが、手術を拒否したいま、癌の西洋的な治療はこれしかない。あとは気力と漢方(てんこ盛り方式)で直すしかない。詩語りの仕事が入れば気分もずいぶん変わってくるのだが、いまはじっと耐えて生きるしかない。一度聴いたら二度聴きたくなる語りを目指して今は精進をしている。
やっと声の力も、昔のように力が戻ってきた。千回も二千回も同じものを読むことが、語りの向上に繋がる。不器用な私は人一倍努力しないと、人を感動させる芸ができない。不器用だからこそ、前進できるのかもしれない。人明かりの出来る詩語りを目指して来年も生き抜きたい。
言葉は、聴く語る(話す)ことが基本である。それが今は読む書くことが、主流になってしまい、詩そのもののダイナミック性が消えていっている。聴く、話すことができない時代になりつつある。携帯電話でメールのやりとりしか出来ない人たちが増えている。このようになっていけばケアする心が失われていくだけだ。人を思う心は、人の話をよく聞き、人に語りかけていくことだ。詩人達の朗読が進歩しないのも、人の話を聞かなくなったせいもある。そして現代詩そのものがつまらないのも、メールと同じような自分勝手な詩が余りにも多くなっている。自作詩をせめて人に読んで聞かせる詩人にならなければならない。巡回朗読会も来年はどうなってゆくのかが楽しみだ。詩人どうしが、朗読についてもっとお互いの話し合う場をもつことが必要である。

2007年12月20日 (木)

日記

1月21日のストライプハウスギャラリーの詩語りライブは、おこなわれます。ギャラリーの塚本さんが、許可されてくれました。ご主人からあまり無理をしないでといわれ、来年からは月曜日のイベントを中止する予定だったのです。天童大人さんも心配され、交渉をしてくれました。塚本さん天童さんに感謝。
現代医療は、経済性を優先させ、患者を置いてきぼり政策である。弱者をいじめだけの医療機関になっている。しかし弱者こそ一番人間的に生きているのではなかろうか。弱者の幸せを考える政治をしてもらいたいものだ。
経済優先の社会は、すべての人たちが不幸になる。環境破壊が、すべての生き物の存在を危険にさらしてゆく。韓国の選挙で経済優先の李明博が大統領に決まった。国民はつねにまやかしに騙されてゆく。本当に人間の幸福とは何かという問いがとわれなくなったら、その社会は死滅したと同じだ。ものの豊かさより、まず心の豊かさが大切である。そのを忘れてものの豊かさに溺れてはならない。

2007年12月19日 (水)

日記

昨夜は、何故か解らないが激しい鬱になった。ほとんど眠れなかった。多分これから詩語りをどのようにしていったらよいのか自分でも迷っているからだ。仕事がない以上、どうやって治療費を捻出していけばよいのだろう。今年はいろんな人に助けられた。もっと詩語りの質を高めていく以外にはない。一度聴いたらまた聴きたくなる芸をしていかなければならない。昨日天童大人氏から来月の1月21日のライブは、画廊の都合で中止になるかもしれないと電話がはいった。今日そのことがはっきりする。
操車場7号で「末期癌日記」にプリントのミスがあった。画面ではちゃんと出ているのに、印刷を行うと画面と違って印刷が出てしまった。近いうちに「末期癌日記」その一を発刊したいと思っている。これは操車場と同じ形式で手作りでつくりたい。治療費を稼ぐために。
手術を拒否した不安が身体のどこかに残っている。腰の痛みや手の痺れなどに不安を感じる。精神的にもっと強くならなければ、この末期癌に負けてしまう。そうならないように生きていかねばならない。鬱からはやく抜け出して、自分の仕事をしていかなければと思う。

2007年12月18日 (火)

日記

昨日よこはま動物園ズーラシアに行った。ここは自然の生態系が維持されている。また動物の生態環境まで配慮されてある。しかし、私は動物を見てかなしくなった。なぜ動物が小さな檻にいれられているのか。そしてある動物はたった一匹で過ごしている。なんだか寂しい。いまは動物保護の為にも動物園は一役かっている。どんどん動物たちまで絶滅の危機にさらされている。これもすべて人間が追い込んだものが多い。いまの日本の山はどこも杉で覆われている。あれでは動物が住めないのは当たり前だ。その杉も一本切るためには赤字になるという。かつては小さな生き物が人間の住む地域に沢山いた。それがいつの間にかどんどん消えていった。私が住んでいる浜川崎の近くには高層ビルがどんどん建てられている。鳥の飛ぶ進路がさえぎられていく。ビルを作るのには土地を堀りそこに住んでいた虫達が殺されていく。人間の幸せを求める結果、他の生き物達が犠牲になってゆく。しかし、いま求めていた幸せが本当に手に入ったかといえば、ますますその幸せが遠去かって行く。物質的な幸せなどもとめれば不幸になるだけだ。
動物園で親子連れが目立ったが、子供が騒いでも、なんら注意もしない。私が注意しても親達は無関心。ある親は逆にこちらをにらめつける。嫌な世の中になってしまった。
これから我々人間はどこに向かって生きていくのだろうか。高層ビルが建てられたお陰で富士山が見られなくなってしまった。遠くの風景がどんどん消えていく。

2007年12月17日 (月)

日記

川崎詩人会で一篇朗読を行う。それから近況について話す。この会で人前で話すことを学んでゆきたい。なかなか人前で話す機会が少ない。いま私にとって公の場で自己表現できる唯一の場である。時間は短いがそれなりに自分にとって勉強していける場にしたい。ただなんとなく参加するのは意味がない。忘年会は腰や肩が痛むので欠席をする。会員の皆様から操車場を買っていただいた。福田美鈴さんからカンパを頂く。それに宇田禮さんからも。
夜はサッカーを見る。さすがに素晴らしい。将棋と同じように先を読んで各選手が動いている。動きが踊りのように美しい。これも選手の日々の努力の結果であろう。詩の朗読も人を感動させたいのなら、日々の精進しかない。屁理屈はいらない。自分との闘いに勝ったものしか本当の喜びが得られない。

2007年12月16日 (日)

日記

このところ、腰や腕の痛みがひどくなってきている。腰はとくに夜中に痛みだす。トイレにも行くにも億劫である。手術を拒否した私は、また来週から抗癌剤の治療を続けることになる。昨夜NHKのテレビで「ひとがた流し」を見ていたが、辛くなって途中でスイッチを切ってしまった。末期癌で手術をすれば、大抵また再発する可能性が大きい。抗癌剤の治療でいくらか副作用がでても、ある程度我慢しなければならないのだろうか。治療費のほとんどない私は他の病院に訪ねることも出来ない。金がなければ治療も満足に出来ないのが、今の日本の状況なのだ。といって金があっても、本当に直るかどうかがわからないのが癌でもある。
海の生き物は、循環的な生態で出来ている。死んでも、他の生き物の餌になっていく。無駄な生き物は一つもない。それに反して人間だけがこの世の生態そのものを壊している。アマゾンでの焼畑でどんどん自然の森が消えていく。そこには多くの生態系が営まれていた。生態系を破壊すれば、当然のも報いがくるものだ。環境問題を政治的に対処しようと思っても、その国の利害が優先してなかなかまとまらないでいる。人間の本当の幸せは、ものの豊かさではなく、心の豊かさでなければならない。ものでは本当の心の豊かさを得ることなどできない。ものはつねに欲望を増していくものでしかない。心の豊かさの欲望は人の心を豊かにさせる。貧乏ですといっていばって生きてゆける世界を作りたいものだ。
川崎詩人会の今年最後の例会がおこなわれた。

2007年12月15日 (土)

日記

ここ一ヶ月で詩集がおくられてきたのがたった一冊であった。私は治療費がかるので、詩集は買ってもらわないと次の詩集を出版することができない。詩人達は、こちらから送らなくなると、詩集は送られてこなくなる。ということは、本当に読んでもらいたい人に送るのではなく、いいかげんな付き合いで送るみたいだ。最近詩人達との交流もずいぶん減った。癌になると、今までの詩人達の態度が良く見えてくる。詩誌や詩集が送られてこないと気が楽になる。世間のつまらない詩界の噂も耳に入らないからだ。
古本屋さんでも、今は小説も売れない。いい小説でも店の前の棚に100円で売られている。詩も小説も今の世の中から相手にされていないようだ。出版社もくだらない小説ばかり出版している。新刊でもほとんど読みたいものが見当たらない。いま私は生態学に興味を持っている。生きていることの意味を問い続けていたいからだ。
泉谷栄さんから昨日葉書をもらった。癌にかかった(死を見つめて生きている)人間には、世間を気にせずに生きていられる。もう何も怖いものがない。言いたいことを本気で言える。栄さんもそのようなことが葉書に書かれてあった。ますます偏屈になっていく。本物の人間しか興味がわかない。失うものがなくなると、人は強く生きていけるものだ。捨てていく人生も楽しいものだ。残るものは必要なものだけだ。私を頼ってくる人を大切にしていけばよいのだ。
受贈詩誌・『鮫』112号有難うございます。

2007年12月14日 (金)

日記

癌の手術を拒否した。そのことで昨日は眠れず、いろいろなことを考えた。
柳澤桂子著『いのちの始まりと終わり』(草思社)の中に「自分という存在の価値を尊重して良心的に生きることこそ、真の人格的自由を意味するものであり、これが人間の尊厳なので
す。」(第6回)とある。
末期癌を詩語りを通じて真剣に生き抜くことが、人明かりになっていくと思う。外部から仕事が入らなくても、柳沢さんがいうように、自分という存在の価値を尊重すること。そのことを徹して生きれば、自分のためではなく、世の中に灯火をともし続けて生きられる。手術をしない生き方で、この末期癌を乗り切る。この記録はそれなりに、他者に価値のある報告だと思う。これからどうなって行くか私にも解らないが、懸命の生き抜くことだ。

2007年12月13日 (木)

日記

昨日病院に行く。胃カメラたCTの結果がでる。膵臓の入れ口を塞いでいた癌細胞が消えたとのこと。あとは胃のがん細胞だけである。いま手術をすべきだという。このままにしていたら、また膵臓の癌細胞ができるかも知れないという。でも胃を手術することは胃をほとんど摘出しなければならない。それに手術したからといって癌細胞が完全にとれるという保障もない。この二ヶ月間考えたのだが、手術しない方向で生きていたい。そして詩語りに力を入れて、自分の力で癌を克服したい。これは辛いことかもしれないが自分と闘っていくしかない。胃がなくなれば、癌さいぼうは大腸や肺に転移していくかもしれない。いままで多くの癌の闘病記を読んできたが、ほとんどが手術で失敗の話が多い。末期がんは、現代医学では治せない。そのことをきもの命じて治療していくことだ。東洋医学と自然治療を取り入れながら、生き抜くことしかない。手術を拒否したことで、昨日はなかなか眠れなかった。いろんなことを考えてしまった。

漉林書房の本の注文は葉書でお申し込みください。
〒210-0852 川崎市川崎区鋼管通3-7-8 2Fまで

2007年12月12日 (水)

日記

一日一日を大切にして生きることが明日の夢に繋がってゆく。社会的に無視されても、ひたすら自分の目標に向かって生きることがその人の人生の価値を生む。芸の場合、これまで頑張れば大丈夫だという境界がない。つねに精進つづけることが芸の世界を深める。死ぬ瞬間まで精進を続けることが大切なのである。末期癌と闘いながら、自分が出来ることを精一杯やるしかない。このところ手や腰が痛い。歩くのも辛い。これは運動不足からくるのだろうか。それとも癌が原因しているのか。
詩語りの仕事が入らないと生活が出来なくなる。他に収入の道のない私にははやり詩語りをおこなうしかない。生活と語りの世界との差があまりにも大きすぎる。それと癌との闘いは、いつ終わるのであろうか。お笑いタレントの竹内ゆうじ氏が直腸癌で亡くなった。三十六歳という。一番癌が進展する年齢だったのだろう。人事のように思えない。もっと生きて自分の仕事がしたかっただろうに。

2007年12月11日 (火)

日記

今日の朝日新聞に粒子線施設の話が載っている。「切らずにがんを治す」とある。建設費に100億円かかるそうだ。そして患者負担は300万円だという。私のように貧乏人には、とても医療費は払えない。癌は手術で切ったとしても、癌は再発の可能がある。手術しても5年の経過をみなければ、本当に直ったのかわからない。特に末期がんの場合の手術を不安である。表面は綺麗に取り除くことが出来ても、細胞の奥にある癌は取りきれないのではないかと思う。患者がだれでも、切らずに癌を治したいと思う。この粒子線治療では、研究段階なので、保険が適用されない。だれでもが病棟に受けられるはずの保険が適用されなければ、貧乏人は死を待つだけだ。経済大国である日本が、癌対策に関しては、まだまだ遅れている。二人の一一人が癌に犯される時代が来ているというのに情けない話だ。行政法人の改革が進まないでいる。天下りの法人の整理をすれば、多くの国民が救われるのに。国土交通省の今のあり方には、疑問が残る。余った財源を高速料金に回すそうだが、あまり意味がない。それより困っている地方に、使用した方が意味があると思う。安心して住める国づくりがいつ出来るのだろうか。アメリカに追随しているようでは、無理なことのように思われる。インド洋の給油をやめて、そのお金を医療費や食料・その他に援助していく方向にすべきである。軍事てき貢献では本当の世界平和は訪れない。

2007年12月10日 (月)

日記

レイチェル・カーソン遺稿集『失われた森』(集英社)という本がある。晩年癌にかかる壮絶な生き方が述べられている。原発で汚染物質を処理するほう方法がない。そのことで徹底的に原発を反対する。
環境破壊でも、この地球の寿命がどんどん縮まっていっている。その反面石油で儲けた人たちがこの世を謳歌している。先日の新聞きじでもロシアの石油で設けた人たちの話題が載っていた。日本に観光に来て金をばら撒いていく。今年の灯油の値上がりで暖房もできない人たちがいる。石油で儲けた人たちは灯油を変えない人たちのことを考えたりしない。マネーゲームで石油が値上がりしている。資本主義もここまでくれば、もう世も末だ。
詩人達は、何を訴えて詩を書いているのだろうか。もっと狂気で生きることも大切なのである。そのことを忘れたら詩を書く意味が消えていくのではなかろうか。

操車場の〆切りは十二月末まで。早めに原稿をお送り下さい。

2007年12月 9日 (日)

日記

操車場7号製本を行う。あすメール便で発送が出来る。読みたい方は送料込みで500円です。田川紀久雄の末期癌日記は公表です。1ヶ月まるごと掲載してあります。
注文はメールでお願いいたします。またはハガキにて申し込みは
〒123-0856 川崎市川崎区鋼管通3-7-8 2F 漉林書房まで
『未来への旅だち』三部作
詩集『見果てぬ夢』
詩集『生命の旅』第一章 生命の旅だち
定価2200円
同人を募っております。詳細は漉林書房まで
詩語りの出前も承っています。
交通費+投げ銭でも行います。

2007年12月 8日 (土)

日記

12月は詩の賞の締め切りが多い。受賞した詩集を読んでも、それほど心にうつものがない。どういう基準で賞をえらんでいるのか理解しがたい。わたしは二十数冊詩集を出しているが一度も賞の対象になったことがない。いま賞はそれほど欲しくはないが、賞金だけは欲しく思う。治療費にいくらかでも助かるからだ。賞を取るには裏取引があるものだ。そこまでして賞など欲しいとは思わない。それよりか詩語りの仕事が入ることが確実に稼げる。人明かりになる詩語りを目指して生きていたいものだ。末期癌といわれて、ここまで詩語りを行って生きられていることに不思議な気がする。語りを行うことによって、私は癌と闘って生きていられる。このこと自体が人明かりになっているのかもしれない。一月二十一日の出版記念ライブは、人の心を掴む語りを行うことだ。そのために頑張って生きることだと思う。来年は巡回朗読会にも出来れば積極的に参加してゆきたい。お客が来るとか来ないかの問題ではなく、巡回朗読会にも、いい語り手がいることを証明してゆきたい。天童大人さんも来年から質を高めたいと言っている。私は他の人のいい朗読を聴きたいものだ。

2007年12月 7日 (金)

日記

末期癌で治療が出来なくなると、病院から追い出される。そして在宅介護緩和ケアーを受けることになるが、実際の話だとほとんど緩和ケアーが受けられていないのが現実である。痛み止めのモルヒネがうまく調合できない。そのため激痛に耐えながら生きなければならない。国民保険の赤字で、入院をさせない国の方針は、激痛に末期癌者には辛い話だ。わたしも今仕事が出来ない状態である。生活も困窮している。もし私も病院から見放されたら、どうすればよいのか分からない。詩語りを通じて、懸命に生きようとしている。といって語りの仕事では生活費にもならない。このままだと、治療費も払えなくなりそうだ。あれこれと考えると鬱になりそうだ。今日はCTの検査がある。この結果によって、これからの治療方針が決まる。出来るだけ胃を切ることだけは避けたい。自然治療で生きるしかないのかもしれない。やっと自作詩の語りも少しめどがついてきた。稽古を続けていく中で、語りにも厚みがでてくる。ひたすら稽古しかない。人明かりになれる語りを行いたい。そのためにこれから癌の治療も考えていかないとならない。
詩誌『えこし通信13号』送られてくる。

2007年12月 6日 (木)

日記

胃の幽門が癌のために縮まっている。そのために消化も思わしくない。明日CTの検査をすればもっとはっきりするだろう。
午前中歯医者に行く。歯の下に膿が溜まっているので麻酔をかけて取り除く。
ひろさちや著『こだわりを捨てる』(中央公論新社)を読むが、文章に説得力がない。どこか信じられない書き方だ。
穂谷君から林檎が送られてくる。ありがたい。
詩誌『阿字』123号が送られてくる。栄えさんは、私のことも書いてくれている。感謝。
名古屋ライブの時の写真が長谷川節子さんより送られてくる。操車場に載せることにした。お手紙有難うございました。

2007年12月 5日 (水)

日記

午前中に胃カメラを行う。
新聞が、広告塔になってしまった。大企業が全面紙の広告のページが増えている。私達は記事を読むのではなく、無理やりに広告を読まされている感じだ。インターネットで新聞を取る人が減少しているのだろうか。テレビでもほとんど観たい番組がない。ますます人は馬鹿になるしかない。生きる希望をもたせるものが眼の前からどんどん消えてゆく。古本屋でも昔はかたいいい本が本棚に並べてあったが、今はポルノ系の本が増えている。古本屋も商売といえ辛い世界と思った。ここまでして本屋を営む必要があるのだろうか。哲学などの本はほとんど並んでいない。自分の生き方を持ちにくい世の中になっている。ただ時間の中で流されていく「人が増えているような気がする。詩の世界でも、テーマがもてなくただなんとなく書いている詩が目立つ。詩というものは、本当に書きたいものだけを書く世界だと思う。そして詩明かりを求めて筆をとることだ。それそろ操車場の7号の印刷をしなければならない。あと校正のゲラが届いていないのがある。それを待って印刷にかかりたい。来週には7号が出来上がる。

2007年12月 4日 (火)

日記

星野ジャパン野球を三日間観てしまった。真剣に闘う姿は見ていて気持ちがいい。スポーツの観戦で中国のファンの態度が悪い。自分の国の選手だけを応援する態度は醜い。国を越えた選手への応援こそ大切なのである。
ロシアの下院選も気味が悪い。プーチンへの投票率は、異常なものだ。まるでナチのような嫌な匂いがする。権力の巨大化は、国を滅ぼす源にも通じる。
詩の世界も現代詩手帖系の詩人が詩人顔をしているが、本物の詩人は、世の中で隠れて生きているものだ。資本主義では、知名度が商品価値を生む。名もないものは無視されがちだ。無視されて生きている方が人間らしく生きていられる。不思議な世界でもある。自分とは何者かを問い続ける生きかたこそ本物なのだ。詩語りが世に認められなくても、自分がそれに徹して生きていられることが最高の生き方なのだ。末期癌になって、どこまで自分の語りが深まっていけるかが
生きていることの楽しみでもある。そのために毎日の精進が大切である。自分を信じて生き抜くこと以外、この末期癌から逃れる術がない。
今週中に操車場7号を発刊したい。

2007年12月 3日 (月)

日記

先日鶴見の総持寺に行った。宮脇昭さんが植樹の指導をした木々を見に行った。私が小学校のときに遊んでいた総持寺とはまったく異なっていた。瓢箪池もなくなって駐車場になっている。私は東寺尾に住んでいた。総持寺の裏手にアパートがあった。中学二年までそこで生活をしていた。52年振りに総持寺に来たことになる。参道の樹木は見事であった。照葉樹林の木の名が分からなかった。こんど行く時は、植物頭鑑を持っていこう。小学校の時に参道の横に日曜学校があって通ったことがある。そこでキリスト教の影響を最初に受けた。参道の横にも池が二つあった。そこが今は大学になっている。寺も商売をしないとやっていけないのだろうか。良寛さんのように、無に徹して生きていくお坊さんはもういないのだろうか。ひたすら自分とだけを向き合って生きる。何も持たずに生きる。その中で本当の豊かさを身に付けていく。現代人からはあまりにも遠い世界である。だからこそ、またそこに人気が生まれるのかもしれない。詩語りの仕事が欲しい。しかし、そのことを願ってもいたしかたがない。ただ詩語りの芸を磨いていくしかない。仕事が入らなくでも芸を磨くことは自分を磨くことでもある。内なる心の光りを求める生き方こそが大切なのである。
中原道夫詩集『人指し指』をいただく。

2007年12月 2日 (日)

日記

浜川崎に夕方になると野良猫が来るようになった。白色の猫である。親猫と仔猫が二匹姿を現す。用心深い。缶詰めを見せると近寄ってきて、はやくエサをくれとねだる。可愛いものだ。それから身体の汚れた猫も時々姿を現す。
江ノ島へ行くと避妊した猫がいる。頭に赤い塗られた猫をみる。それは避妊が終わった猫達である。先日早稲田大学の構内でも学生が猫を避妊させてエサを与えているという記事が載っていた。猫を捕まえて処分するやり方は、人間としてどうかと思う。猫は人間の都合で生きているのではない。みんな違ってみんないいの世界が大切なのだ。樹木もそうだ。山に杉ばかり植えているのを観るとやりきれなくなる。いろんな植物が生えているのが理想なのである。そうすれば山に住んでいる動物たちも里に下りてくることはない。自然を守るということは、みんな違ってみんないい世界を作り上げることだ。金子みずゞの世界はそういう世界である。しかしプロの朗読家たちは、私達の朗読を否定したがる。自分達だけが正しいなんて思う思想は危険だ。そこには金子みすゞは存在しない。詩語りは何ものにも囚われない自由な世界でありたい。

2007年12月 1日 (土)

日記

無の思想を受け入れることは並大抵のことではない。良寛さんをみれば解る。冬でも煎餅布団一枚で過ごす生き方は、現代人には出来ない。灯油が馬鹿値をしていても、買わずにはいられない生活とは、一体なんなのだろう。私はユタンポ一つでこの冬は我慢している。医療代の支払いにも困っている。生活保護が受けられ以上、無駄使いはできない。有機野菜も買えなくなった。なるようにしかならない。現代人ほど無の思想に縁遠い。それなのに無の思想にあこがれる。不思議な現象がはやっている。贅沢に生きている人ほどこの無の思想に取り付かれやすい。まやかしの無の思想が世の中に蔓延っている。無とは自然そのものだ。足すことも引くこともいらない。ただあるがままの姿なのだ。癌になってこの世が美しく見えたのも、このあるがままの姿が眼に写ったからにほかならない。死をも生もそのまま受け入れる気持ちになったことで世の中が別の世界のように思えた。できるだけこの世を愛して生きることが、生きる勇気を与えてくれると思った。人はだれでもいつか死ぬ。ただ早いか遅いかの差にすぎない。そのようなことに気をとられる必要もない。一日一日を精一杯生きていればよいことなのだ。ただそれだけである。あと一ヶ月で今年も終わる。末期癌といわれてよくもここまで生きてこられたものだ。詩語りに打ち込んで生きていれば、新年を迎えることもできるだろう。操車場も7号が出せる。嬉しい限りである。
詩誌『鹿』109号ありがとうございました。

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