エッセイ 田川紀久雄
芸が人々の心に響く
田川紀久雄
人の心を動かすものは、芸の力である。詩朗読を聴いていて、詩人は、この芸の力を疎んじていると痛感する。要は自分の芸を信じるかどうかで、人の心を動かす原動力にもなる。それを身につけるためにはひたむきな努力以外にない。私は、詩語りを自分なりに高める努力を続けてきたつもりだ。だからこそ、時たまにではあるが詩語りの出前の仕事もある。はたしてどれだけ人の心を惹きつけられることができたかはなんとも言えないが、まったく無意味であったということはない。 プロのピアニストは一日の練習時間が六時間を越えるという。プロは、自分自身との闘いに勝てる人のみが生き残れる世界なのだ。それでも本当に飯の食えるプロはほんの一握りでもある。 このような意味からいえば朗読をする詩人で毎日数時間の練習に励んでいる人がいるだろうか。私の周囲を見渡してもいない。朗読で銭をとれる詩人がいないのも当然だ。少しぐらい上手い人はいる。だからといって、お客を驚かす程の詩人は見あたらない。所詮隠し芸程度としか他の詩人達は見ていない。「うまく朗読できたからそれがどうした」という冷たい視線しか感じられない。朗読で人の心を揺さぶることだってできるのだ。そのことが解らないでいる。 詩の朗読にはメソッドがない。このことが朗読をたかめないまま来た原因の一つでもある。私は、まず聲を作ることから始めた。それから詩を丁寧に読む。あとは一つの詩を何回となく聲を出して読み込むことである。私は、これ以外に何もやってこなかった。あと人前で多くのライブを行うことしかない。演劇のように沢山のメソッドは必用としないかのかも知れない。だからこそ、詩朗読は難しいとも言える。また奥が深い。詩は魂の表現であると私は思っている。それを芸にしてお客に披露することはそう簡単には出来ない。日々の努力の積み重ねがあって初めて可能になる。 暗記が出来るほど読み込むのが必要であるが、私はどうしてか暗記ができない。いくら読んでも覚えられない。むかしあるお坊さんがいた。そのお坊さんもお経が覚えられなかった。そのお坊さんの名は思い出せないが、とても偉いお坊さんであった。要は心の問題なのだと思って暗唱をすることを諦めている。暗唱ができないからテキストを語る度に新鮮な気持ちになれる。日本の語りでは、見台の上にテキストを置いて語るのが原則である。それはテキストをいかに大切にしているかと言うことでもある。 肝心なのは暗記ができるようになるまで練習を行なうということである。芸の境地に達するには、そこからが本当の修行になる。命がけで稽古を重ねて初めて、人に感動を与えられるものが生まれてくる。そこまで詩朗読を追い詰めていく詩人が出てこなければ、詩朗読は所詮お遊び程度のものだと言われて終わる。実際問題としても私もそこまでは出来ていない。全国の詩人を見渡してもそのような詩人が出てくる気配はない。 世界朗読大会というものがある。私は一度も聴いたことがないが、世界の朗読の水準はどの程度のものなのか知りたいものだ。多分世界の何処かには、素晴らしい朗読家がいるに違いない。日本の詩界でも、自作詩朗読の凄い詩人がいるぞという噂を聴いたことが一度もない。そして 「詩のボクシング」のチャンピオンの朗読を聴いても感銘を受けたことがない。以前、秋山基夫のビデオテープを買って聴いたことがある。詩人の朗読の一般的な方法である。作品を次から次へと読んでいく。ただそれだけである。人から、詩人の朗読はそのようなものだと言われたことがある。このタイプの詩人の一人にあゆかわ のぼる(秋田の詩人)がいる。最近CD『一縷の希み』を出した。自分の詩をひたすら読むという行為。それが詩の朗読と言われてきた時代があった。大塚で行った朗読で泉谷明さんの朗読が凄かった。(私はテープで聴いたのだが)音はそれほどよい録音ではなかったが、親の死を語った詩が印象に残った、作品のテーマに読む聲が突き刺さっていった。これはまさしく、詩人のみしか出来ない朗読である。この泉谷明もジャズという名のCDを非売品であるが出している。彼の渋みのある聲は健在である。CDを出している詩人では、吉増剛造・高橋睦郎・白石かずこ・川崎洋などがいる。それから千葉の詩人で市村幸子が二つのCDを出している。朗読に自信のある詩人がCDを出してゆくことは詩朗読文化を広める意味でも大切である。いろんな詩人の聲を聴くことで、朗読の豊かさを味わってもらいたい。そして、朗読は知名度などと何の関係もない。向き合う姿勢と聲の力が聴き手の心を掴むものだということが解る。自主制作でCDやDVDを作るのなら詩集を上梓するより安くできる。活字離れしている時代の中ではCDやDVD入りの詩集が増えていくだろう。そうなると、詩人達も朗読にそれなりに取り組んでいかないと時代遅れになってしまう。詩集が売れないと、嘆く時代ではない。聲を鍛えることで、詩集が売れようになるかもしれない。人と人との和が薄れてゆく時代になっている。聲がその和を取り戻す原動力になって行く可能性もある。
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