エッセイ 坂井のぶこ
鳥と猫
坂井のぶこ
二月の初旬、小鳥たちは飢えている。木の実はもう食べ尽くされた。十一月の柿から始まって、ネズミモチ、ピラカンサスへとすすみ、今はもうどの木も裸になっている。雀たちは地上に落ちた草の実をついばんでいる。ヒヨドリも時々混ざっている。だがこちらは野鳥のために人々が半分に切って置いているみかんなどをおもについばんでいるらしい。
一月までたくさんいたメジロみお姿を見せない。セキレイもいなくなった。シジュウカラはよく鳴き声を聞く。ツツピー、ツツピー、ただし遠く高い木の上にいることが多いので姿をみつけるのが難しい。
メジロはきっと梅や椿など、花を追って行ったのだろう。ここらへんは実のなる木は多いのだが、早春に咲く花の木が少ない。桜の咲くころにはまた戻ってくるかもしれない。
そういえばキジバトの姿を年明けから見かけていない。いや一回ちょっとショッキングな形で見ている。
JFEの敷地の中に「アウマンの家」という建物がある。資料館という看板が出ている。そのまわりの庭に四、五匹の野良猫たちが住みついていた。
母さん猫が1匹、仔猫が二匹、それに父さん猫らしい牡猫とおsの兄弟猫。私はアウマンの家に行ってその猫たちの様子を見るのが楽しみにしていた。遊んだり、頭をぽかぽかたったきあったり、芝生の上を追いかけっこをしたり、そんななんでもない猫の日常が新鮮に感じられた。
ところがある日、アウマンの家の軒下に大量のハトの羽が散らばっていた。色の模様からしてどうもキジバトのようだ。生え変わる為に抜けた羽にしては量が多すぎる。何かが根元について固まりになっている。まさか、この猫たちが狩をしたのか。
ショックだった。目の前ではお父さん猫が仔猫のエサをゆずっている。ほのぼのとした光景。同じようにキジバトも分けあったのだろうか。
しばらくして猫たちの姿が消えた。いつもなら駆け寄ってくるお父さん猫も。仔猫を二匹つれたお母さん猫もいない。テラスで日向ぼっこをしていた他の数匹も見えない。何があったのだろうか。やはりあの狩がたたったのかもしれない。人間がエサをやryことで野猫が増え、それが野生の生き物を捕食し、見咎めた管理者が処分した可能性としてはそれがいちばん大きい。
キャットフードをやっていた私にも責任がある。しかし、猫たちのいない光景は淋しい。あいつらには罪はない。
キジバトが姿を見せないのも気がかりだけれど……。
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